絶望の効用。
望みが絶たれるなんてことは、そうそう無いんじゃないだろうか?
これは俺が未だ若いからっていうのもあるのかもしれない。
若いから身体が健康だし、若いから最悪工場派遣をやれば生きていける。
若いから、今から何かを頑張れば、何にでもなれる。若いからこそ、将来への可能性は無限大だと考えてしまう。
だとするならば、若い内は絶望なんてしないんじゃないか?
この議論をはじめるには、まず自分にとっての望みが何なのかを考えなければならない。
自分にとっての生きる望みが明日の飯ならば、最低限度の生活が保障されたこの日本で絶望することなんて不可能である。
最悪、何か悪さをして牢屋にでもぶち込まれてしまえば、毎日3食の飯にありつけてしまう。
絶望という意味においての望みって何だろう?
自由だろうか。自由が絶たれれば、確かに生きてる意義を見失う可能性は高い。
でも俺は健常者だし、働いてお金を稼ごうと思えば稼げるし、自分が少し我慢すれば自由なんてものは割と簡単に手に入る。生活保護なんて制度もある。
では、愛される望みが絶たれればどうなるか?
今は親が生きてるから、まだ人との繋がりがあるが、もし親がいなくなってしまったら、俺を愛してくれる人間なんて誰もいないのではないだろうか。
でも今は親が生きてるし、仮に死んでも何とかなりそうな気がする。
明日の飯も、自由も、愛も、将来の夢も、現時点では全くもって絶望していない。
これって果たして良いことなのだろうか?
実際、結構ヤバイことなんじゃないかと思う。
絶望してないってことは、毎日お気楽に過ごせてるってことだし、そういう生活から何か得るものがあるか?というと、別に何もない。
火事場の馬鹿力という言葉があるように、人間は絶望の淵に立たされて初めて今までの限界を超えて、力を発揮できるというところがある。
引くに引けないプレゼンの場が用意された時など、俺は何度も何度もイメトレをして、準備をして、ガクガク震えながら喋り、最後までプレゼンをやり通した。
あの時は、自分には無理だと思ってた事が、不恰好ではあるが実際出来てしまったのである。
今思えば、それは逃げるという望みが絶たれた状況に俺が立たされたからであり、つまりそれは、絶望が俺を成長させてくれたと言っても良い。
そう考えると、今の俺。ヒキニートってのは、全くもって成長の無い生き方ということになる。
重要なのは、現時点で絶望しているか?ということだ。
現時点で絶望していなければ、今後確実に訪れるであろう絶望に関しても、だんだんと意識が薄れていくものなのだ。
このままヒキニートを続ければ、10年後絶望することは何となく誰でも想像できるのだが、今日ヒキニートであることに絶望する人はあんまりいない。
それは、明日から本気出せば何とかなるって考えの人が多いからだと思う。
俺もまさしくその中の1人。
10年後に絶望するのではなく、とりあえず今日という1日を絶望しておく。
絶望の数だけ人は成長するのだとすれば、これは今すぐにでも絶望しておくに越したことはないのである。
今後も自分が働きそうにないと思うなら、働かないという望みを絶つのである。就職支援センターに電話をして、面談の予約を入れるといい。このようにして、どんどん自ら絶望をつかみとりにいくのである。
本を読まずに1日中スマホでネットサーフィンに夢中になってしまっているのなら、1日スマホを封印するという方法により絶望をつかみとるのである。
運動せずに寝っ転がってしまうのなら、寝転がるスペースを筋トレ用具や本で埋め尽くしてしまい、寝転がることに絶望するのである。
自分に望みを与えるスキをつくってはならない。
今日という1日を成長したいなら、今日という1日を絶望するがいい。