自意識を持つことは恥ずかしいこと。
全体のために自分がするべきことがわかっていないと、人は放逸にふけり怠惰な人生を送ることによって最後に絶望し苦しむだろう。
一方で、自分のするべき事をちゃんと理解して生きていると言う人間。それはただの思い込みである。そのような人間はただ、自分という存在を肯定して欲しいが為に生きているだけであり、そんな人生はスッカラカンで中身が何も無い。そのまま生きれば、最後には虚無感しか残らず苦しむことになるだろう。
本当にするべき事をやっている人間なんて、この世にいるのか?
いるにはいるのだろう。
私は違う。私はただ自意識にとらわれて人生を無駄に生きてきたバカだ。
今も自意識にとらわれている部分は往々にしてある。すごいバカだ。
自分にとらわれてしまうと、人はどうしても自分を肯定して欲しいという欲が出る。
そのような欲が出ると、やることなす事全てが無意味で虚無的なものになる。
絵を描くのだって、文を書くのだって、ライターになりたいだの画家になりたいだの、哲学者になりたいだの、異端者になりたいだの、デキル人間でありたいだの。
そんなものは全て自意識のとらわれ。
そのような理想的な自分になれば、自分という存在を周りから肯定してもらえると思って、それだけにとらわれている。
絵を描くのが好きなのでは無く、絵を描いている自分が好きなのであり、ライターになって何を社会に提供したいのか?と考えているのでは無く、ライターという肩書きを持った自分に憧れを抱いているだけなのである。
どれも全く意味が無いし、中身が何も無い。
物事の中身というのは、社会に対して何かを提供することで初めて生まれてくるものである。
自意識にとらわれている人間は、自分が社会に対して何をしていくべきなのか?という本質がいつまで経っても見えてこないのだ。
私という存在は実際には無いのだと、はやく気が付かなければならない。
今の私は、明日になると1日老けた人間となり、考え方や知識の量も微妙に異なる。それは昨日と同じ私ではない。違った私である。
0.001秒ごとに違った私が連続していくだけ。
私は存在すると言い終わった頃には、違う私がそこに存在しているのだ。
つまり私なんて存在しない。存在することが不可能なのだ。
存在するはずもない私を、周りから肯定して欲しいと思う事はあまりにもバカげている。
必死で何者かになろうとしている私は、ただの幻想を追いかけているにすぎない。私は存在しないのだから、何者かになることもできない。不可能な話なのだ。
鏡に映った自分の顔や姿を見たりすると、自分は存在していると錯覚しやすい。
社会に対して自分のやるべきことをキッチリやっていく為には、この自分という存在のとらわれ、錯覚を、無くさなくてはならない。
これは私が無敵マンになるための課題だ。
私にとって無敵マンとは、仏教でいうニルヴァーナと同義である。
しかし、ここにきて自分でも自分がわからなくなっている。
このように、無敵マンになろうとすることも自意識なのではないか?
ただ目の前にある、やるべきことを集中してやればいいだけなのに、今もこうして自意識にとらわれている自分がいる。
私は存在しないのに、自意識…
いかに自意識が自分という存在にこびりついているのかがわかる。
タイトルに「自意識は恥ずかしい事」と書いたが、恥ずかしいと思う気持ちも自意識だ。
自分は存在しないということを認識できている人間は恥という感情を抱かない。
私は存在しない。
それを今日も明日も明後日も、しっかりと認識して生きていく。
それが私のやるべき事だ。