無敵マンのニート日記

臆病な性格をした無職。自由主義者。 Twitter→@mutekiman_xxx

自由主義者の臆病な性格をした無職が、人生の一コマを書き連ねております。Twitter→@mutekiman_xxx

あなたはどっち側の人間?

正義に一貫性がある人間と正義に柔軟性のある人間、どちらが正しいか?


正義に一貫性のある人間は、自分の中の正義に絶対的自信を持っており、その自信は思考の吟味や実体験を通して得られたものであるはずである。そして、一貫性を持った正義というのは真理であるから揺るがない。反対に、揺らぐ正義は真理でないから本質的な正義とは呼べない。

一貫性とは悪く言えば頑固とも取れる。頑固といわれようが、頑固な正義こそ本当の正義なので悪い意味で言われようが何の問題もない。


柔軟性のある正義の良いところは、社会性のある所である。この世の中では、大多数の正義に合わせることで上手くやっていける部分がある。本質的には正義でも大多数の中で悪だと見なされると、それは悪になる。それが社会というものだ。世の人々と対立する事なく仲良く生きていきたい人間にとって本質的正義などは役に立たない。なぜなら、時には悪も正義にしないと世の人々と仲良く生きていけないからである。

柔軟性を悪く言えば、人に流されるとも取れる。皆んなが人殺しをしていれば自分も流されて人殺しをする。皆んなが「あいつは悪い奴だ死刑にしよう」といえば、自分も加担してイジメ殺す。本質的正義とはかけ離れているが、自分が周囲と上手く関係を築いて生きてくという目的に際しては正義となる。


この2つを比べて分かるのは、柔軟性ある正義というものが、そもそも正義では無いということ。

本質的な悪を大多数の声によって正義と錯覚して生きている人間が、果たして正しい人生を歩めるのか?

こんなことは考えてみればすぐに分かることだ。それなのに、大多数の人間はどうやら柔軟性ある正義を好むようだ。バカなんじゃないかと思う。


きっとこの世は、そんなバカ達と、そのバカ達を導く賢い人とに二極化されて成り立ってるんだろうと思う。


小学生の頃に何かを決めるときはいつも多数決であったことを思い出すと、私たちは既に小学生の頃からバカになるよう大人達から洗脳されていたのだろうということに気づく。

それはもう仕方の無いことなのかもしれない。


皆と同じようにバカになりきれなかった一部の人間は、彼らを導く側に回らないと一生気持ち良く生きることは出来ないのだろうなと思う。だって、大多数の彼らとは本質的に人間の質が違うんだもの。彼らと同じ立場で上手くやっていける訳が無い。


やはり僕は指導者になるべき人間なのだ。


それが今ハッキリと分かった。

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