この世の愛はニセモノだ。
皆愛情を欲している。
しかし私は愛などいらないと思っている。
だって皆愛情に見返りを求めてるから。
見返りを期待した愛情なんて貰っても嬉しくない。
愛情の理想形がギブアンドテイクなのはわかってる。貰ったら、返す。そうすることで自他共に幸せになれるから。
でも、それはただの理想形に過ぎない。
愛を貰ってすぐ返す人もいれば、中には全く返さないという人だって現実には存在する。
全く返さない人には与える側もだんだん腹が立ってきて、愛情を与えることを時期に辞めてしまうだろう。
腹を立てて与えることを辞めるということは、やはりあなたが与えていた愛情は見返りがあることを前提にした「条件付き」の愛情だったということの証明になる。
このように考えると最終的には皆自分を愛してもらうために他人を愛しているのだということが分かる。
これは親子関係のこじれた家庭などを見るとよく分かると思う。
最初は愛していたはずの子供が意に反して自分勝手な子供に育ってしまい、今となっては親は子供に死んで欲しいとすら思っていて、実際に親の方から子供との縁を切ってしまうというような家庭だ。
縁を切られた子供は犯罪に手を染め、悪魔のような人間になり、社会に迷惑をかけ、人を不幸にし、自分も不幸なまま死んでゆく。
正しい愛情を注がれなかった人間は社会との正しい関わり合い方を知らぬまま死んでゆくのである。
「見返りを期待した条件付きの愛情」は人を歪め、社会を歪めていく。
そんなニセモノの愛なんていらない。
「無条件の愛」
私が求めているのはコレに尽きる。
愛とは無償であるべきだし、無償であるからこそ、それは本当の愛といえるのだ。
だけど、無条件の愛を与えられる「強い人間」なんて、この世にはほぼいないと言っていい。
私は生きてる内に、そういう強い人間に是非会ってみたい。
そして私もそういう強い人間に進化したい。
今の私は所詮、愛を求める側の人間でしかない。
愛を求める人間は弱い。弱いから、愛を必要としている。
人が弱いのはなぜか?人が愛を求めるのはなぜか?
→世界をありのままに見れていない
(この世は苦,無常であるという真実が見えてない)
→我欲を捨てきれていない
(自分に執着している)
→愛情不足
(今まで条件付きの愛情しか貰って来なかっ た)
強い人間は他人を正しく愛することができるが、弱い人間は正しい愛情を受けて来なかった為に他人を正しく愛することが出来ない。
他人を愛せない人間が他人から愛されることはまず無いので、そういった人間は自分で自分を愛するしかない。
だから、自分勝手な人間になっていく。
でも自分勝手な人間だけが悪いとは決めつけないで欲しい。だって、彼らを正しく愛さないことによって自分勝手にさせてしまった周りも悪いんだから。
今の世の中、強い人が少な過ぎる。
弱い親、弱い子供、弱い教師、弱い同級生、弱い社会人、弱い社長、弱い大人。
無条件に他人を愛することのできる強い人間が今のこの社会には必要だ。
だから私は仏教を学び、強い人に会いに行くつもりだ。強い人に弟子入りして学びたい。
だが私は強い人間を今まで一度も見たことがない。
強い人間って一体どこにいるんだろう?