盲目の人間たち。
「見飽きたものは見ているようで見ておらず、
見たことのないものは必死で見たがるが、それが何なのかは見えていない。」
可笑しなことに我々人間は何かを見ているようで結局何も見ていない。
我々に何かを教えるのは常に見飽きたものの中に存在するのだが、我々はそうしたものには一切目を向けず、見たことのない「新たなもの」を必死で見たがっている。
しかし、「新たなもの」から何かを学ぶということは非常に難しいことなのだ。
一度だけ見たものと、何度も見ているものとでは、そこから得る情報量が全く違ってくることを考えれば分かる話である。
見るとは、見るものから何かを知識として教わり学ぶことであり、バカみたいに感情を揺り動かして良し悪しの判断をするなどといったような単純なことではない。
我々は自ら見るものについて、ターゲットを絞らなければならない。
ターゲットを絞らないことには、いつまで経っても本質的に見るということが成り立たないからである。
本質的に何かを見たいのならば、
滅多に見れないものや、見たことのないものを必死で見ようとするのではなく、
「何度も見なければならないもの」や「何度も見たいものだけ」にターゲットを絞って見るべきなのだ。
現に見ても見ろ、この世で金持ちや成功者などと言われている人間は、何も見えていない人間を注意深く見ている。