面白い小説を読んだよ。
三島由紀夫の「命売ります」という小説を読んだ。これは私が高校生くらいの時に一度読んだことがあったんだけど、その当時は途中からツマラナクなって完読できずに挫折したのであった。
しかし25のオッサンに成長した今になって読んでみると、内容がよくわかり、面白くて、すぐに読破してしまった。
この小説は読者に何を伝えたいのかというと、この世はゴキブリのように予測不能で不確かな動きをし、そのため煩わしく、怖いものだということである。
そして我々人間は、そのような恐怖から逃れるために、常識という「確かな」共通認識を作り、皆それに従うことが当たり前だという世界を作ったのだということである。
考えてみれば確かにそうで、
この世はゴキブリとまさに同じように「不確かさ」という恐怖で溢れていて、社会がどう動くかや、他人が次にどのような言動を取るかといったことは全て予測できない。それはごく当然に我々にとって恐怖であるべきはずなのだが、僕が思うに世の中の多くの人達はそうした恐怖心に鈍感な気がする。
世の人々は社会というものに対して全く恐怖心を抱いてないように見える時があるのだ。
というのも、世の人々は「常識」という人為的な「確かさ」を「真の確かさ」だと勘違いしているように思うからである。
本来、他人が自分に対してどのような言動を取るかなど、全くもって予測不能なはずなのだが、世の人々は当然の如く他人は「常識」というルールに従って動くはずだとタカをくくって安心しきってているのである。
もし本当にそうなのだとすると、常識に縛られて生きている人々は、皆さぞ幸せ者なのだろうなと思う。
僕は常識に従うことをバカらしく思う人間なので、社会や他人もそれに従うことをバカらしく思っているに違いないと勝手に思い込んでいて、特に、他人というものに対して私は全く信用のおけないゴキブリだという認識を持っている。
ゴキブリを恐れるように、私はこの世を恐れて生きていく以外にないのだろうか。
この世が不確かであるという恐怖と、常識に背くことによって社会組織から排除されるという恐怖。
この2重の恐怖に怯えて生きていくしかないのだろうか。
否。恐怖に打ち勝ってゆかなければ、結局我々はこの世で生きてはいけないのである。
実を言うと、そういう姿勢で生きてる今の私は「世界はそういうもんである」と思いつつ、この世と対峙している。
そうすれば案外恐怖は薄れていくのだということを知ったからだ。
つまり「この世界が不確かであることは絶対的に確かである」と最初から自分の中で決め込んでしまえば、案外ゴキブリも怖くはなくなるということだ。
この世は予測不能であり、不確かであって当然。
常識などといったものに皆で従う風潮を作って、人間を無理にでも確かなものにしようとすること自体、正直言って無理があるのだ。