無敵マンのニート日記

臆病な性格をした無職。自由主義者。 Twitter→@mutekiman_xxx

自由主義者の臆病な性格をした無職が、人生の一コマを書き連ねております。Twitter→@mutekiman_xxx

他人の為が1番怖い。

自分の為だけに生きるのでは無く、他人の為になるようなこともして生きなさい。


これは母がよく言うセリフである。


僕は毎回こう言い返す。


何を言ってるの。皆自分の為だけに生きてるんだよ。募金だってそう。あれは貧しい人にお金を恵む行為を自分が快感に感じるからやるのであって、他人の幸福の為ではない。

あれも自分の幸福の為にやっていることなんだよ。


母は言う。


それは違う。募金は自分の為ではなくて他人の為にしていることじゃない。それはとっても良いことなのよ。


ここから先は議論が堂々巡りするだけである。


僕は他人の為という言葉が大嫌いだ。


だって他人の幸福なんて自分にわかるわけがないからである。


例えば、今僕はユニセフのマンスリーサポートプログラムの会員で毎月1000円を世界の貧しい子供たちの為に寄付している訳だが、僕が寄付したこのお金が世界の貧しい子供たちの幸福の為になっているのかと問われれば、確実に幸福の為になっていると僕は自信を持って言えない。


確かに栄養失調状態を回避して生を維持できることは幸福かもしれないが、別な視点で見ればそのまま死んでしまったほうが貧しい環境下で生き続ける必要が無く幸福だったとも言える。



結局、他人にとっての幸福なんてものは他人にしか解りようのないもので、それ故に他人の幸福は、他人自身が自身の責任で持って、作り上げてゆくものだと言える。


だから僕は募金はするが、それによって他人が幸福になろうが不幸になろうが知ったこっちゃない。あくまで幸福は自ら作り上げるものなので、作り上げる為には少なくとも生きてなくちゃいけないねということで募金しているだけ。


自分がした募金は絶対に他人の幸福の為になっているぞ!と考えている人間は、ちょっと危ない人間だと僕は思う。


そういった人間は、つまり他人の幸福を完全に理解してしまっていると勘違いしている訳だから、その勘違いがひどいものになると、優しさで人を殺してしまったり…ということも十分あり得る話になってくる。


不幸そうに見える人間は私の手で殺してしまったほうが、その人の為になるだろう。


だとか、


将来人様に危害を加えるように見える人間は、私の手で今殺してしまったほうが、将来人様の為になるだろう。


といった具合に、他者への好意や優しさというものが、どんどん独りよがりで一方的なものになりかねない。


「他人の為」というのは怖いのである。


善行のつもりで殺しにかかられたら、こちらとしてはたまったものではない。

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