バカも個性の一つか?
自分で考えることの出来ない人間を私はバカと呼ぶ。一つの問いが出てきた場合にまず自分で答えを導き出そうとせず、真っ先に他人に答えを教えてもらおうとする人間は、考えるという知的能力を自ら放棄している。
自分で考えられなければ、誰かから教えてもらった答えが本当に正しいのか?という疑念さえ湧かない。どんな情報でさえ鵜呑みにしてしまう。そうすると、人は簡単に騙されたり、他人の都合の良いように利用されたりするので、やっぱり何事も自分で考えられないような人間は文字通りバカを見るのである。
自分で考えるという事は意識するかしないかの問題であり、割と誰にでも出来る事である。それを怠り続けた老人なんかを見ていると、ちょっと思考力のある若者から反論されただけで、たちまち激昂し出したりする。そういう老害を見るたび私はどうしても、バカも極まれば個性になるのかもしれないとの疑念を捨てられずにいるのである。
「バカは死ななきゃ治らない」という言葉はきっと、そういう絶望を歌った言葉なのだろう。しかし、私は生きているバカ共を断じて許容してはならないと思うのだ。その人なりの考え方は一つの個性として認めて良いが、無思考の結果として、どっかの誰かから刷り込まれた受け売りの考え方などを認めてしまうと、バカが図に乗って今度は多数決の論理など持ち出しつつ、大挙をなして攻め込んでくるだろう。
つまり、バカは個性に見せかけた無個性なのであるからして、私はこうしたもの達を人間として認める訳にはゆかないと考える。
このものたちは、人間ではい。一匹の汚れた、野良猫である。