無敵マンのニート日記

臆病な性格をした無職。自由主義者。 Twitter→@mutekiman_xxx

自由主義者の臆病な性格をした無職が、人生の一コマを書き連ねております。Twitter→@mutekiman_xxx

怒れ!憎め!恨め!

「敵と憎しみについて」という記事で以前、何かを憎むことの重要性を説いた。憎しみは一人の無気力な人間を狂気たらしめる最高の媚薬としてかなり有効だということである。なぜなら、無気力の主な原因として行動の欠如があり、この行動を促す最も有効な手段が「憎しみ」であるからである。

私が何かに気付かされる時というのは、たいてい何かを憎んでいたり、恨んだりしている場合が多い。こういう時は決まって、自分の理性を最大限働かせ、私の場合でいえば、文字を書かずにはいられなくなる。ノートでもスマホのメモ帳でもいいのだが、とにかくこの狂気じみた怒りを、理性による表現活動によって鎮める必要に駆られる。実はこうした状況から生まれるものが一番芸術作品としての出来が良く、自分にとっても価値のあるものになる事が多いのである。

何かに対して怒ったり、憎んだり、恨んだりするには、自分の直感からして明らかに「劣悪」なものと出会う必要がある。自分にとって心地の良い生活ばかりしていると劣悪なものには出会わない。長年の心地良い日々を経て、その劣悪性を自覚した場合には、その自分の浅はかさから怒りが込み上げてくることはあるかも知れないが、こんな風に自分の生き方を疑うことは普通簡単には出来ないのである。

なので、通常多くの場合にはこの「怒り」から逃げ出すのである。ネガティブな感情を抱く自己を恥じ、逃げるという手段でもって解決を図る。

一方、芸術家という生き物は一味違っていて、この「怒り」に真正面から向き合うことを選ぶ。まずしっかり向き合うことによって怒りを熟成させ、次にそれを自己の表現活動によって沈静化させるのである。一度沈静化してしまえば、そこにはもう自己を怒らせるものは何ものも存在しなくなる為、ここではじめて個と個の調和が実現する。対して、怒りからの逃避というのは、即ち異質な個からの逃避を指しており、ここには対立の持続のみがあるだけで、個と個の調和は実現されない結末となる。


つまるところ、芸術家を名乗る者はこの「怒り」を食糧としなければならないという訳だ。

他の芸術作品を見ては怒り、もてはやされている著名人を見ては憎み、鏡に映る惨めな自分の姿を見ては恨む。

こんな怒り狂った生活を送る事が出来れば、芸術家の日々としては上出来だろう。

充実した日々を送りたければ、私はもっと怒るべきなのだ。

間違ってもあのひ弱な、温厚な人間なんかになってはいけない。

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