生きるとは。
本当の意味で「生きる」とはどういうことか。
毎日朝から晩まで死人のような顔で働くことを本当の意味で生きたというのか?
休日にツマラナイ友人とツマラナイ話を繰り広げることを本当の意味で生きたというのか?
働くのが嫌だといって、他に何かするわけでもなく、暇な時間を持て余し、昼寝でもするかと平日の昼間から優雅に昼寝でもすることが本当の意味で生きたということなのか?
これらはどれも本当の意味で生きたとはおそらく言えないだろう。
このように人々は貴重な時間を無駄に浪費して毎日平然と生きている。
ふと気付くと、50歳、60歳の爺さんだ。
定年まで会社に勤め上げ、退職して、ようやく自分のためだけに使える時間を持てるようになる。そして思うのだ。「よし!今からは自分の生きたいように生きるぞ!」と。
しかし、もう爺である。余命はあと何年であろうか。
その時点で60なら、あと10年くらいはあるのだろうか?20年か?もしかすると、あと5年も持たないかもしれない。
残された時間は残りわずかしかないのである。
そこではじめて、時間の貴重さを認識し、1日1日を大事に大事に生きようとする。
まさに、この自分のためだけに、貴重な時間を大切に生きようとする、この事こそが、本当の意味でいう「生きる」ということなのではないか。
明日の24時に死ぬとわかったら、あなたはどうするだろう?
僕なら、今まで育ててくれた親にまず何かの形で感謝するだろう。それから、美味しいものを食べまくると思う。酒も飲んで、禁煙中のタバコも吸うかもしれない。
とにかく、やり残すことがないよう、たくさんのことをするだろう。昼寝なんてしてられない。
間違っても、明日も工場に働きに行こうとは思わないはずだ。
これが生きることなのだ。
別に私はニートを推奨してるわけじゃない。
働かないと生活出来ないなら、働くしかないのだ。それは仕方のない事だ。
しかし、それが本当に自分のやるべき仕事なのか?というのは吟味する必要はあると思う。
明日の24時に死ぬことになろうとも、俺はこの仕事をするんだ!ってくらいの仕事なら文句はないだろう。
自分のやりたい事や、自分のやるべき事がわからない〜なんていう人は、しょうがない。
生きる為に、どこでもいいから工場でもなんでも働いたらいいんじゃないだろうか。
それもその人にとっては決して間違いではない。
要は、今という時間の貴重さを再認識し、時間の流れの中にただ存在するのではなく、また、意味なく他人に時間を奪われることなく、自分のためだけに、意味あることに時間を使うこと、つまり、「本当の意味で生きる」ということを今すぐすべきであるということである。