私もゴキブリである。
目の前でポイ捨てをした人がいたとする。
それを見たあなたは注意をするだろうか?
たぶんしないと思う。あー仕方ないなと思うだろう。
しかし、もしそのポイ捨てされたゴミが風で宙を舞って、ちょうど自分の頭にへばり付いたとする。そのゴミはガムのカスが付いていて、それが髪にへばり付いて取れない。
この場合も、あなたは、あー仕方ないと思って、許すだろうか?
ブチギレて注意するかもしれない。
相手のやってる行為は同じ事なのに、自分が害されたと感じた場合には注意をして、自分に害は無いと感じた場合には注意をしない。
これはあまりに利己的な判断基準ではないだろうか?
違う例えで考えてみよう。
あなたはレジ待ちで並んでいて、後ろにも数人並んでいる。そうした場合に自分の前に利己的な人間が割り込んだとする。
割り込んできた人間はいかにもヤクザで、注意をするとトバッチリを受けそうだ。
この場合あなたは注意するだろうか?
許してしまえば、自分の後ろに並んでいる人たちは、許せない!と思うだろう。
そうした場合、自分が注意しないことで後ろの人達も損をすることになるので、ここでは許すという行為自体が利己的になってしまう。
割り込んだ人間が、ひ弱そうな人間ならば注意をするかもしれないが、我々はヤクザが怖いので、おそらく注意をしない。許すのだ。
あくまで自分に害があると判断した場合、我々は常に利己的な行為を選択してしまうのである。
新幹線で無差別殺人を食い止めようとして刺し殺されてしまった会社員のニュースがあった。
利己的な行為を選択する普通の人達は、おそらく逃げるだろう。もし襲われている人が自分の家族なら、助けるだろう。
彼は自分の命をかけてまでも、逃げずに立ち向かった。
また、彼が助けようとした人間は、彼とは何の関係も無い他人だったそうだ。
完全なる利他的人間である。
こんな人間がいるということに、世間は驚きを隠せなかったに違いない。私もそうである。
世間からすれば、あり得ない人間なのだ。
そう思ってしまうことが、既に我々の利己的性質を証明してしまっている。
自分に害があるかないかで注意したり、助ける人を決める我々が、とても浅ましく思う。
どのようにすれば、我々人間はあのような天使になれるのだろうか?
私は今も利己的性質を捨てきれないでいる。