1人ぼっちが寂しいなら。
私は1人だ。どこまでも1人だ。この世界で1人ぼっちだ。
家族でさえも今では私の仲間ではないと思っている。
1人ぼっちが寂しいか?
寂しくないとは言い切れない。
他人を自分の仲間だと考えれば済む話なのだが、他人を自分の仲間だと考えた瞬間、私はその仲間に対して常識という体裁を保つために気を遣わなければならない。
他人に気を使うことは、私の心をひどく動揺させ、私を苦しめる。
他人に対して気を遣いたくないのに、気を遣ってしまうということは、
実は世界で1人ぼっちだと思っていても心のどこかでは他人を自分の仲間だと思っているということなのだろう。
他人を虫けらだと思いたくても自分も虫けらだから、要は同じ部類の生き物同士ということで、彼らに対して仲間意識を持つことから抜け出せないでいるのである。
他人は私の仲間だと考えるべきなのか、仲間じゃないと考えるべきなのか。
どっちつかずと言ったところで、非常に歯がゆい思いをしている。
おそらく、私は自分の仲間を作りたいのだ。
仲間がいれば、やはり世界は楽しいものになるに違いないのだから。
仲間を作りたいなら、多くの人達から魅力的に見える人間にならなければならない。
魅力も何もない嫌われ者は一生を多数派先導の世界でイジメられながら過ごすことになる。
魅力がある嫌われ者は多数派を先導する側になれる。
努力をして、魅力のある人間になることさえ出来れば、私は仲間を引き連れながら世界をより良いものに出来ると考えている。
つまりは1人ぼっちが嫌だと思うなら自分が誰かの仲間になろうとするのではなく、自分が誰かを仲間に入れてやる程の魅力的人間になれということである。
ほうら、このままだと、只の嫌われ者から抜け出せず、一生1人ぼっちのイジメられっ子のまま、死んでゆく。
孤独を連れ添い、苦痛に耐えて耐えて耐え抜いて、虫から人間に進化するならば、虫たちを人間にすることも可能になる。
それこそが、この短い生を人間として果たすための最も適した使命であると私は確信している。