無敵マンのニート日記

臆病な性格をした無職。自由主義者。 Twitter→@mutekiman_xxx

自由主義者の臆病な性格をした無職が、人生の一コマを書き連ねております。Twitter→@mutekiman_xxx

バカも個性の一つか?

自分で考えることの出来ない人間を私はバカと呼ぶ。一つの問いが出てきた場合にまず自分で答えを導き出そうとせず、真っ先に他人に答えを教えてもらおうとする人間は、考えるという知的能力を自ら放棄している。

自分で考えられなければ、誰かから教えてもらった答えが本当に正しいのか?という疑念さえ湧かない。どんな情報でさえ鵜呑みにしてしまう。そうすると、人は簡単に騙されたり、他人の都合の良いように利用されたりするので、やっぱり何事も自分で考えられないような人間は文字通りバカを見るのである。

自分で考えるという事は意識するかしないかの問題であり、割と誰にでも出来る事である。それを怠り続けた老人なんかを見ていると、ちょっと思考力のある若者から反論されただけで、たちまち激昂し出したりする。そういう老害を見るたび私はどうしても、バカも極まれば個性になるのかもしれないとの疑念を捨てられずにいるのである。

「バカは死ななきゃ治らない」という言葉はきっと、そういう絶望を歌った言葉なのだろう。しかし、私は生きているバカ共を断じて許容してはならないと思うのだ。その人なりの考え方は一つの個性として認めて良いが、無思考の結果として、どっかの誰かから刷り込まれた受け売りの考え方などを認めてしまうと、バカが図に乗って今度は多数決の論理など持ち出しつつ、大挙をなして攻め込んでくるだろう。

つまり、バカは個性に見せかけた無個性なのであるからして、私はこうしたもの達を人間として認める訳にはゆかないと考える。

このものたちは、人間ではい。一匹の汚れた、野良猫である。

野良猫を躾けることは可能か?

消費者とは好き嫌いの激しいペットみたいなものだ。動物でいうと猫に近い。今の私はこの猫を躾けようとか、誘き出して捕まえようなどと、バカな事を企んでいる。猫にとってそれが平和か?と尋ねられると、どうも違う気がする。猫は猫らしく自由気ままにさせておくのがたぶん正解なのだ。だけども、それでは人間の立場としてはツマラナイので、猫じゃらしくらいは目前で振らせてもらいたい。色々な野良猫に出向いて行き、刹那的からかいをして即立ち去る。この「潔いイタズラ」が、恐らくは消費者と付き合う上で最も有効な手法だと私は見ている。

世界平和を考える無職。

個性の肯定・許容は生産者サイドの人間に与えられた課題であって、消費者側の人間にとっては考える余地もないことである。なぜなら彼らは目の前の個性を好き嫌いで判断するだけで、自分と似た者か自分の好きな人間以外は全て消費効率の敵であり、社会の敵としか見なさいから。

そもそも人を消費物と認識しているから好き嫌いの判断が起こるのであって、人を生産者と認識していれば、それは一つの個性として許容できるはずなのである。

結局、何事も消費することで足れりとする消費者側の人間であり、また人を消費物としか考えられない脳である以上、異なる文化や宗教、人間そのものを、一つの個性として尊ぶことは不可能な気がする。

私の最近の悩みは、そのように尊ばれないことを前提として、果たして私が消費者側の人たちと良い人間関係を築いていけるのかということ。

生産者と消費者間において、良好な人間関係は果たしてあり得るのかというのが疑問なのである。一生産者として、消費者を「人間」として認めていいのかという疑問なのである。

消費者が人を消費するのと、生産者が消費者を消費するのでは、これまた全く同じことであり、だとすれば、私が理想としていた個性を許容しあえる平和な世界などといったものは、全人類を生産者にする以外に無く、現実的に考えて不可能なんじゃないかということになってしまう。

私のような生産者気質の人間は最早、世界平和の不可能性という絶望の中、ただひたすらに個をひけらかし、大勢の消費者気質の人々から殺伐とした目線を投げられ続けながら、死ぬまで孤独に生きていく他ないのかもしれない。