無敵マンのニート日記

臆病な性格をした無職。自由主義者。 Twitter→@mutekiman_xxx

自由主義者の臆病な性格をした無職が、人生の一コマを書き連ねております。Twitter→@mutekiman_xxx

自分の反応をウォッチする

芸術家は芸術活動に不可抗的でなければならない。

芸術活動とは人に影響を与える事であり、人に影響を与えずにはおれない人間(芸術家)というのは、つまり他人がどのような反応をするのかに興味がある人間なのだろう。

この知的好奇心の根底には人々の個性の肯定がまず大前提としてあり、だからこそ一つの事象に対しての多種多様な人々の反応に興味が湧くのだろうと思う。

また、他者と自己との違いを明瞭に認識することが個性への寛容・興味に繋がるのだとすると、もう一つの前提条件として「事象に対する自己の反応」をしっかり認識しておくべきとも言える。どちらかといえば私はこの自己の反応をあまり明瞭に認識出来ていない気がするのだ。例えばある殺人事件のニュースを見て「怖いな」と思ったとして、なぜ怖いと思ったのかをちゃんと説明できないような気がしきりとしている。だとすると、その自己のものと思われた事象に対しての反応は、実はコメンテーターや大衆の声を反射的に頭の中に思い描いただけに過ぎないという事も十分有り得るということ。TVなどのコメンテーター付きの報道番組の欠点はそこにあると思う。自分が反応する余地も無しに他者の意見を聞かされるというのは、自己の反応を認識する力、いわゆる自己を知る力を身に付けるための手段を視聴者から奪っているとも言える。

このことを踏まえた上で、自分の表現行為が芸術活動なのか、単なるお節介なのかということは今一度吟味する必要があるだろう。お節介が芸術活動と異なる点は、確固たる正義があるという思い込みのもと、相手の反応を見るまでもなく正しいと思われる行為を成すことで、つまりここには個性の否定(全ての人は同じである)と、その原因として自己反応の純粋性の吟味の欠如があげられる。

人を好きになるには、、いやせめて人を拒否しない為には、なによりもまず自己を知るということの必要性を再認識した次第。

啓蒙するピエロ

仕事に追われつつ休憩時間はずつとYouTubeを見ていた。人が喋っている動画が好きで、経済学者の成田氏や解剖学者の養老先生が喋っている動画は見ていて楽しい。恐らく自分はユーモアを交えつつ知的な話の出来る人に憧れているんだと思う。逆に知的な話というのはユーモアが無いと聞いていられない。眠たい授業をする先生が正にそれで、マジメな話というのはユーモア的期待感に裏打ちされているからこそ、根気よく聞き続ける気にもなれるというものなのだ。

そういう意味では人々を啓蒙する手段としては、論文を書くよりも楽しい雑談なんかをネット配信した方がより有効な気がする。雑談の上手い人というのはユーモアだけに限らず、人をイライラさせたり、悲しませたり、とにかく人の心を動かす事が上手い。

考えてみれば映画や小説といった芸術作品なんかを見てもそうで、マジメなテーマを伝える手段として、同時に人を感動させる力が作者に備わっていなければ、その作品はいくら素晴らしかろうが人々に見向きもされない。

何かしらの真理を誰かに伝えたい場合には、その理屈を伝える理路整然さも必要だが、同時にエンタメの素養も必要不可欠なのだということは今一度心に留めておきたい。

思考と夢を掴めないバカになるな

人は常に考えていなければならない。何かを思考し、自分なりに答えを出す。そういう思考のサイクルが日々の中にないと、バカな人間になる気がするからだ。もちろん何も考えてない日なんてなく、人は誰でも何かしら心に思考するものだと思うが、思考って夢と同じように掴み取れないくらいの早さで僕たちから遠のいていく性質がある。考えたと思えば、もう忘れている… などと言った事は普通で、紙に書き留めたり、人に話したりしないことにはすぐ忘れ去られる運命にある。いや紙に書きとめたって忘れていることもあるくらい、人は忘れ大きき生き物なのだ。だから私はせめて、日々の思考の結果を日記につけたいと思った。そうすれば自分が日々バカになっていると言う感覚を持たずに済む。それは僕にとって幸せに生きるために間違いなく必要なことだ。日々不幸を感じている時は身も心も重たくなって、眠りの中に逃げ込みたい気持ちに駆られる。無理のない範囲でこれからは日記をつけていくつもりだ。