無敵マンのニート日記

臆病な性格をした無職。自由主義者。 Twitter→@mutekiman_xxx

自由主義者の臆病な性格をした無職が、人生の一コマを書き連ねております。Twitter→@mutekiman_xxx

何のために生きるてるの?

人生がわからなくなってくると、こんな疑問がふと湧いて出てきたりする。


自分は何のために生きてるのか?


自分は何のために生まれてきたのか?



あなたなら何て答えるだろう?




幸せになるため、欲を満たすため、ただただ生きるため、親を幸せにするため、分からない、人によって色んな答えがあると思う。


自分も、こういうことばかり考えてた時期があった。


友達もいない、彼女もいない、学校でいつも1人ぼっち、学校を辞めて親からも見放され、なくなくはじめた仕事も人間関係で上手くいかず、これからやりたい仕事も特になく、自分が何をやりたいのかも分からない。


そんなドン底の時の俺が出した生きる目的の最終結論は、


「自分の欲望を満たすため」


だった。


ただただ自分が幸せにさえなればそれで良い。


そう考えていた。


結局のところ、皆、なんで生きてるのかというと、何かやりたいことがあるからだ。


何もやりたいことがないと言う人間も、「死にたくない」という欲望があるから生きているわけであって、やりたいことがないからこそ、また死にたいとも考える。


この世には色んな欲望が混沌としていて、十人十色で違ったりする。


それぞれの人間がその欲望というものを満たすべく日々生きているのだ。



当時、俺が導き出したこの生存目的の結論に、間違いは無いだろうと思い込んでいたのだが、最近になって、実は違うんじゃないか…とも考えるようになった。


「自分の欲を満たすため」という生存目的で生きる人間に幸せな未来は無いような気がしてきたのだ。


現に俺は実家ヒキニートなわけだが、このような生存目的でこれからも生きるのだとすれば、俺は自分の幸福のために、次のような欲望を満たすべく生きることだろう。


・家から出たくない

・仕事をしたくない

・家族以外の他人とは関わり合いたくない


こうしたことをその後何年も続けることによって、明るい未来が待ってるとは考えにくい。


働いている状況でも同じことがいえる。


働かざるを得なくなった場合は、職場で次のような欲望を満たすべく生きることだろう。


・嫌なことがあったら直ぐ辞めたい

・こちらから喋りかけたくない

・1人で黙々と仕事だけしていたい



結局、何のために生きてるのか?という問いに対して「自分の欲望を満たすため」という答えは、この集団社会において自分中心的すぎる部分があり、集団社会であるからこそ、それを理由に上手くいかなくなってくる。


家族内、学校内、職場内、公共施設内、どんな所へ行っても集団社会があり、そこで上手くやれないと人生そのものがダメになっていく。


先月まで働いていた期間工での生活も、思い返すと「金さえ手に入れればよい」という自分中心的思考に染まっていた。


だから、職場でも適当に挨拶して、出来れば関わり合いたくないと思いながら、周りと一定の距離を取っていた。


なぜか仕事は人一倍真面目に取り組んだ。


仕事の疲労で身体に痛みが出てきた時、狭い寮の部屋のベッドで1人、辞めたい気持ちでいっぱいになっていた。


俺としては祝い金さえ手に入ればいいわけだから、それ以外での周りの迷惑なんて微塵も考えてないし、関わり合いたくないと思っていたから、逆に迷惑をかけてやりたいという思考にもなっていた。


思い立ったら即行動。休日にも関わらず上司に「辞める結論に至ったため月曜からはもう仕事には行かない」というメッセージを送った。


その数分後に電話が掛かってきた。


「急にどうしたの?あんなに頑張って真面目に働いていたのに〜」


戸惑いを隠せないのか、冗談でしょ?というような笑いも含めて上司が優しく電話口で語りかけてきた。


その時、急に申し訳無さが湧いて出てきて、やっぱり辞める結論に至るんじゃなかったと少し後悔したが、一度言ったことを変更するのは俺の無駄に高いプライドが許さなかったため、そのまま上司に辞めたい意思をつらつらと伝えた。


結局辞めることに変更はなく、月曜に退社手続きをするという話で電話は終わった。


その後色々1人で思いにふけったのだが、今みたいに、1人で悩まず、身体が痛いということを上司に相談し、心配してもらえたり、励ましてもらえたりしていたら、一度立ち止まって辞めたいという気持ちも少しは和らいだんじゃないかと思った。


金さえ入ればいいという自分勝手な欲を満たすことのみを考え、職場という集団社会で自ら孤立していったことによる失敗。



考えてみれば、今までの人生、全部そんな感じで失敗していた。



生きる目的というのは、もちろん人それぞれ違って良いと思うのだが、今回の事での気付きもあって、俺はそれが


「欲望を満たすため」ではなく



「愛情を共有するため」


なんじゃないかという結論に上書きされた。


愛情の共有とは簡単に言えば、思いやりの共有。


相手を思いやり、また相手からも自分のことを思いやってもらえる。そんな関係がまさにこの集団社会にピタッと合致することに気付いた。


死にたいと考える人間がなぜ死にたいのかというと、誰からも自分のことを思いやってもらえないから。そういう愛情の欠如からくる部分も大きいんではないかと思う。


何もやりたいことがなくとも、誰かから親身に相談に乗ってもらったり、幾分話を聞いてもらえるだけでも、それが無いのとあるのとでは全然違ってくるし、少しは頑張ってみようという気持ちになったりする。


そういう、自分を思いやってくれる人間が周りにいない人。そういう人が鬱になったり、自殺をしてしまったりする。


そういう人間は運がないのか?と言うと、そういう周りに恵まれない人がいるのも事実。


しかし、何のために生まれてきたのか?何のために生きているのか?という問いに対し


「愛情を共有するため」


と、もしもその人が答えることができるのだとしたら、そういう人間こそが現状を変えて成長していくのだろうと私は思う。


切っても切り離せない、この集団社会。


ここで1人の人間として生きていくには、相手を思いやる愛情が必要不可欠。


こちらに相手を思いやる気持ちが無ければ、相手からも同じように扱われるだろう。


一人一人が相手を思いやる気持ちを持ち、愛情を持って接し合えば、この世はとんでもなく幸せな空間になるんだろうな〜と思うと、やはり私たちの生存目的は「愛情の共有」なんではないかと改めてそう感じた。

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