深海魚は鳥にならなくてよい。
環境は向こうからやってくる。
我々の産まれ落ちた場所には既に環境があり、その小さな環境は、より大きな環境に取り囲まれている。環境は自分の意思とは無関係に目まぐるしく変化し、自己を混乱させる。
混乱を乗り越えた先には、ただ静けさだけが残る。それは環境を支配したのか、ただ環境に呑み込まれただけなのかは知らないが、とにかくそこには環境に慣れ親しんだ平和な自己が残存している。
どうやら人は環境に馴染む性質を持っているらしい。「環境が人を造る」と言うのはあながち嘘じゃない。環境に対する反抗心や、新たな環境への欲望が特段強くない人間に限って言うなら、人は産まれ落ちた環境において人間を完成させるのである。
環境は向こうからやってくる。気付けば人は環境のただ中にいる。これに対して「人が環境へ向かう」という事もあり得るが、これはいかにも「反自然的」である。それは環境に馴染むべきして馴染むので無く、必死に馴染もうとする努力的姿勢において、人間の必要以上のエゴが見て取れる。それはあたかも深海魚が鳥になりたいと言って、海底から空を目指すようなものだ。現在の環境で十分生活が成り立つにも関わらず新たな環境を目指すのは、必要に迫られての事では全然無くて、豊かになりすぎた人間の単なる遊び心に過ぎないと私は視ている。要するに、向かった先の新たな環境において、当人はそこに馴染むか・馴染まないかを「選択できる立場」にいるわけで、馴染まなければそそくさと、元いた環境へと帰ることが可能なわけである。そこには、前提として、新たな環境に左右され得ない自分がいる。
このように場当たり的に環境を探し求めたり、遊び半分に環境を覗き見るという行為自体に、私はロクでもない人間の豊かさを見てヘドが出る。
環境は向こうからやってくる。いや、環境が人間の方へやって来て然るべきなのである。
静けさに飽きたからといって人が環境へと向かったり、あわよくばその新たな環境が新たな自己を創造するのだ!だのと目論んだりする事自体に、そもそもの進化論的な誤りがあるのではないか?
焦らずとも、環境は移ろう。静かな海底にジッとしていようとも、周囲の何かは変わりゆくし、少なくとも間違いなく、自己の姿は年老いてゆく。
であるなら、今現在の平和な環境を心置きなく楽しもうではないか!
なにも心配する必要はない。
いずれにせよ、環境は向こうからやってくるのだから。