無敵マンのニート日記

臆病な性格をした無職。自由主義者。 Twitter→@mutekiman_xxx

自由主義者の臆病な性格をした無職が、人生の一コマを書き連ねております。Twitter→@mutekiman_xxx

神の使徒は社会を見下ろす。

無敵マン

1人だと考えるしかなくて、どんどん極端な思考に走りがち。その上、思考は最後、必ず結論付けるもんだから、ここに一個の「極端な思想を持った人間」が出来上がる。こうした人間のさらに悪いことに、社会的孤立の寂しさから、それを無理やり肯定することで自我を保とうとする傾向にあり、そこには「社会が悪であり、我こそが正義である」といった、全世界を敵に回したような信条が完成される。

もう、ここまで来たらオシマイもオシマイ。社会と関わる度問題を起こす「問題児」と化す。この問題児は「反省」などといった概念を決して持たない。なぜなら、我こそが神である事を信じて止まないからである。

人が人として進歩するためには、間違った自己を社会に投げ込み、「矯正」していく手順でもって、自己を完成させていかねばならないのだが、すでに自己を完成させているつもりの本人としては、全く逆の手順でもって社会に対峙することとなる。

つまり彼らは、正しい自己を社会に君臨させ、間違った社会を「正す」・「説教を説いて回る」などといった事を、自己の宿命とすら感じつつ世界を練り歩くのである。

彼は本気で自分のことを、世界の「救世主」だと信じて止まない。

深海魚は鳥にならなくてよい。

無敵マン

環境は向こうからやってくる。

我々の産まれ落ちた場所には既に環境があり、その小さな環境は、より大きな環境に取り囲まれている。環境は自分の意思とは無関係に目まぐるしく変化し、自己を混乱させる。

混乱を乗り越えた先には、ただ静けさだけが残る。それは環境を支配したのか、ただ環境に呑み込まれただけなのかは知らないが、とにかくそこには環境に慣れ親しんだ平和な自己が残存している。

どうやら人は環境に馴染む性質を持っているらしい。「環境が人を造る」と言うのはあながち嘘じゃない。環境に対する反抗心や、新たな環境への欲望が特段強くない人間に限って言うなら、人は産まれ落ちた環境において人間を完成させるのである。


環境は向こうからやってくる。気付けば人は環境のただ中にいる。これに対して「人が環境へ向かう」という事もあり得るが、これはいかにも「反自然的」である。それは環境に馴染むべきして馴染むので無く、必死に馴染もうとする努力的姿勢において、人間の必要以上のエゴが見て取れる。それはあたかも深海魚が鳥になりたいと言って、海底から空を目指すようなものだ。現在の環境で十分生活が成り立つにも関わらず新たな環境を目指すのは、必要に迫られての事では全然無くて、豊かになりすぎた人間の単なる遊び心に過ぎないと私は視ている。要するに、向かった先の新たな環境において、当人はそこに馴染むか・馴染まないかを「選択できる立場」にいるわけで、馴染まなければそそくさと、元いた環境へと帰ることが可能なわけである。そこには、前提として、新たな環境に左右され得ない自分がいる。

このように場当たり的に環境を探し求めたり、遊び半分に環境を覗き見るという行為自体に、私はロクでもない人間の豊かさを見てヘドが出る。


環境は向こうからやってくる。いや、環境が人間の方へやって来て然るべきなのである。

静けさに飽きたからといって人が環境へと向かったり、あわよくばその新たな環境が新たな自己を創造するのだ!だのと目論んだりする事自体に、そもそもの進化論的な誤りがあるのではないか?

焦らずとも、環境は移ろう。静かな海底にジッとしていようとも、周囲の何かは変わりゆくし、少なくとも間違いなく、自己の姿は年老いてゆく。

であるなら、今現在の平和な環境を心置きなく楽しもうではないか!


なにも心配する必要はない。

いずれにせよ、環境は向こうからやってくるのだから。

何もしない不幸な人々。

無敵マン

「必要に迫られる」とはどういう事か?


それは、環境による場合と自己の混乱による場合とがあり、双方がいみじくも合致した時にのみ湧き起こるものである。


人は環境によっても行為を左右され得る。もしも戦争が起これば、人は自己の意志に関わらずして、逃げるか・隠れるか・戦う等に行為が限定され、かつての平和な環境下のみにおいて許されたような「いつも通りの日常における行為」に安心して身を委ねる余裕は無くなる。またその場合、どんなに自身が混乱し、その混乱を「行為」によって打ち消そうとしても、手元に武器が無ければ戦えず、隠れる穴倉が無ければ隠れられず、逃げる為の足が無ければ逃げることは出来ない。


つまり、必要に迫られた行為が「行為」として実際に現出する為には、混乱した自己のみや・環境のみが単体で行為を迫ってもダメで、それら双方が巧く合致し、互いに手を取り合わないことには、行為は現出し得ないのである。


必要に迫られた先には必ず「行為」がある。この行為というものが、人間にとっていかに奇跡的かつ運命的な「類稀なるもの」であるかが、お分かりいただけるだろうか?


無行為に悩む不幸な人々。
それは単に、未だ運命が巡って来ていないだけかもしれぬのである。