無敵マンのニート日記

臆病な性格をした無職。自由主義者。 Twitter→@mutekiman_xxx

自由主義者の臆病な性格をした無職が、人生の一コマを書き連ねております。Twitter→@mutekiman_xxx

私はセミに成りたい。

自分の言葉で人に何かを伝えるという責任感であったり、その何かを人に伝えるために思索するといった責任感が、今の私からは一切感じられなくなってしまっている。


そうした事に最近、ふと気が付いた。


もともと口数は少ない自分だったが、最近ではもっと無口な人間になっているような気がして、自分でも若干の危機感を覚えたのであろう。


「責任感」を失った人間からはエネルギーの隙間光さえも見つけ出すことは出来ない。それはまるで人間の抜け殻である。抜け殻と言えば、今しがた外で狂ったみたいに鳴いているセミ共を連想させるものだが、正直言って今の私なぞは、あのうるさいセミ共にも劣っている。


セミの雄たちは子孫を残すという「責任感」に駆られ、雌ゼミたちをおびき寄せる為だけに、あんなにも毎日、力強く鳴き続けているわけだが、それに比べ今の私なぞは、部屋でシンと静まり返っているばかりか、特に何かを為さねばといった「責任感」が心に有るわけでもない。


だからか私は、静かな自室の窓越しで、彼らのその懸命な生の雄叫びを聴いたりなんかした時には、そのひたむきな生の様にいたく感動し、時々彼らを羨ましいとさえ感じるぐらいなのである。


彼らと私の決定的な違い。


それは間違いなく「責任感」の有無にある。


何をしようにも無気力でしかたがない今の私には、その「責任感」というものが、著しく欠如しているように思えてならない。


かつては私にも、ちゃんとした責任感を持ち、生きた時代というものがあった。


毎日休まず学校へ通ったり、毎晩塾へ行き勉強に勤しんだり。こうした日々は、元からダラしのなかった私の顔つきを大袈裟なくらいにキリリとさせ、努力することを厭わないどころか、当時の私にとっては努力そのものがエクスタシィですらあった。

当時の私をそこまでひたむきにさせた原動力。それは、決して親を悲しませてはならないという、純粋無垢な責任感でしかなかった。


人は自分の為に生きるよりも、他人の為に生きた方が遥かに力強いパワーを発揮するものである。その原理を上手く利用した感情こそ、ここでいう「責任感」と言うべきものである。

たまに人は、自分に対して責任感を持つということもあるかもしれないが、自分に対する責任感ほどいいかげんで信用ならぬものは無い。それを責任感と呼ぶにはあまりにおこがましい。それはかえって不純とさえ言うべきものである。その意味においては、かつて私が抱いていた親に対する責任感というものは、紛れもなく純粋な責任感であったと言える。


しかし、残念なことに、この純粋な責任感が私の手中にあったのは、ほんの束の間の間だけに過ぎなかった。

運の無い人間からはすぐさま金が逃げ出してゆくように、純粋な責任感もまた、私の中から逃げ出す構えを見せたのである。

親に対する「責任感」というものを、私はだんだん疎ましく感じるように成っていたのだ。要するに私は、親の為というよりは むしろ自分の為のみに生きたく成っていたのだった。

これを卑しいと、言う人は言うであろう。しかし、こうした生き方は、今となっては単に私の宿命であったとしか言いようがないのである。

なぜなら、当時から私は自分に対してだけは絶対に嘘を付くことの出来ない人間であったし、また嘘を突き通す抗力も無かったからである。


結局、当時わたしが持っていた唯一にして貴重な「責任感」は、成長の最中突如として自由の重要性を見出した"宿命的覚醒児"によって、いみじくも粗末に捨て去られたのであった。


それ以来、私は あの頃のような懸命さを、まだ一度たりとも味わったことがない。


だから私はセミの鳴き声を聴くたび想い出すのである。わたしが必死に生きていた、あの頃の記憶を。


今ちょうど、私は、土の中で眠っているところである。


やがて外へ這い出て、うるさく喚き散らしてやる為に、今はちょうど、純粋な責任感というやつを探している最中なのである。

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