無敵マンのニート日記

臆病な性格をした無職。自由主義者。 Twitter→@mutekiman_xxx

自由主義者の臆病な性格をした無職が、人生の一コマを書き連ねております。Twitter→@mutekiman_xxx

無礼のススメ。

私は常日頃から、自分が完全にリラックスした状況でないと自分の頭が正常に働かないような感じがしている。


例えば会社の同僚とたわいも無い会話をする時など、気の利いた返答を会話終了時にようやく思い付く次第で、つくづく自分の頭の処理能力の遅さを恨むものだが、

これは厳密に言えば私の頭の処理能力が遅い訳ではなく、単に私の精神状態が平常さを欠いているだけに過ぎないのである。


まず私は、まともに相手の目を見て話をすることが出来ない。相手の目を見つめていると何だか無性に腹が立ってくるのだ。

まるで視線を合わせながらでないと会話が出来ないみたいに、いちいち話す最中にはこちらの目をジッと見つめながら話をする連中の何と多いことか。


興味のない人間のつまらぬ話を聞いているだけでもこちらは苦痛だというのに、そんな私の心情などまるで気付きもしないような相手の節穴の目などに、なぜ私が一々視線を合わせてやらなければならないのか甚だ疑問で仕方がない。


また、まともに見つめ続けるに値する人間の顔など、まずもって存在し得ない。

目の奥で何を考えているのか分からぬような、人間の怪しくも醜い顔を見つめ続けるくらいなら、道端に落ちている犬のフンなんかを見つめ続けている方が、まだマシである。


ご覧の如く、こういう考え方でいるので、もちろん私が話し手である場合にも聞き手である相手の目に向かって熱い視線を差し向けるなどといった愚行を、私はやらない。


しかしながら、こうした愚行の多くは当然のごとく世の常識として蔓延しているため、私は仕方無く無く、常識外れの無礼者とならないためだけに、つまり相手に忖度をして、会話の最中には出来る限り相手の目を見つめようと努力していたりする。


こうした無駄な気遣いが私を緊張させ、果ては頭の回転の鈍いポンコツに成り下がらせているのである。



礼儀をわきまえたポンコツでありたいのか、それとも、無礼ではあるが有能な人間でありたいのか。


この場合、私は断じて後者を取りたい。


そう思うと、やはりこれからはもっと無礼な人間にならなければいけないなと、つくづく思う。


礼儀を知らずして無礼となる分には、誰かに指摘されない限りにおいては鉄面皮でいられるだろうが、問題は礼儀を知った上で無礼を働く場合の「心の波」である。


どれだけ故意に無礼を働いてもビクともしない不動の心を持つためには、礼儀や常識の正当性を1ミリたりとも自分の中で信じ得ないような、徹底した無礼の哲学が必要となるだろう。


おそらく私は、まだ3センチくらい礼儀の正当性を信じているので、まだまだクソッタレのポンコツであることは言うまでも無い。

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