高貴な人生とは。
スマホの写真フォルダにあった600枚の自撮り写真と150個程の自撮り動画を全て削除した。これらは暇な時を見ては何度か見返したりして、よく自惚れていたものである。
自分の外見をカッコ良いものだと思い、それを、何の取り柄もない自分の心の拠り所としていたのだ。
我ながら本当にバカである。こんなものに縋っているから、僕はいつまで経っても、何の行動も起こさず、何の努力もせず、日々を怠惰に過ごし続けてきたのだ。
生まれた時から既に持っているものだけに誇りを持つ人間は、ただ生まれて来ただけでは決して持つことの出来ない「高貴なもの」を獲得できず、また、それを獲得するために情熱を燃やすことも出来ず、ただただ持ち合わせの、白とも黒とも言えぬような、そんなチンケな灰色をした不完全な美に、無理にでも見惚れる事を生き甲斐とし、死んでゆくしかないのである。
それは正に、虚無の人生と言えよう。
今持っている自分の美点は、全部、潔く、キッパリと捨て去ることである。
そうした持ち合わせの美点は客観的に見て大した美しさでも無いくせに人間を過度に傲慢にさせ、真の美しさへの追求というものを阻害する。
つまるところ、高貴な人生とは美の追求なのだ。
道端で偶然拾った綺麗な小石は近所のドブにでも投げ捨て、ダイヤモンドという名の本当に美しいと肯ける原石だけを求め、それこそ一生をかけて地を掘り続ける。
そうした生き方こそが、まさに人を虚無から救い上げる情熱的生き方というやつで、それは、やがて、人を高貴にもするのである。