無敵マンのニート日記

臆病な性格をした無職。自由主義者。 Twitter→@mutekiman_xxx

自由主義者の臆病な性格をした無職が、人生の一コマを書き連ねております。Twitter→@mutekiman_xxx

日々何を得て、何を残すのか。

日々を楽しく暮らす。それだけを考え、ひねもす怠惰に耽り散らしているが、ふと、このままでいいのかという不安がよぎる。何も積み重なら無いまま、湯水の如く時が過ぎゆく。気づけば無職になってから早9ヶ月が経った。この無職期間中、何か得たものがあったかと問われても、何もなかったとしか答えようがない。自分は何者か、人生とは何か、そんな答えなき愚問をくどくどと悩み、思考の羅列をノートに書き付け、なんとなく頭のモヤを晴らしたような気になって、気晴らしに本を読み、絵を描き、身体を鍛える。気が向くままに起きて、気の向くままに眠る。
過ぎ去った時間の後に「何かを得た」と言えるのは、何かしらの結果を残せて初めて言える事なのだろう。私はこの9ヶ月間、何の結果も残さなかった。だから「何も得なかった」と私は胸を張って、そう答える。


人にはそれぞれ自分だけが見ている世界というものがある。それを何かしらの形でもって外部に表現することで、理解者が現れたり、あるいは共感者が現れたりする。いや、それは必ずしも目の前に現れるという訳ではないのかもしれない。ただ、外部に表現されたものには必ず、それをどこかしらで見ている誰かがいる。自分という存在が誰かに知られる。私という人間が誰かに見られている。たったそれだけの事実がありさえすれば、不思議と私は誰かと繋がっている感覚を抱く事ができるのだ。人との交流が決して好きではない私だが、それが即ち孤独も好きなのだという事ではない。こんな私でも、心の奥底では、誰かと繋がりたいという欲求を、人並み程度には秘めているものなのである。


日々の経過の中で、何かを得る、何かを残す、何かを積み重ねるという事。
それは詰まるところ、私という人間を外部に表現し続ける事なのだろう。
私という人間がこの世に居たという事。それさえ誰かに認知されたのであれば、他には何もいらないと、私は本気でそう思えるから。
私の場合は自己表現が下手な上に、個人的な喜び・感動は全部独り占めにしたいという生来の意地悪い性癖を持っていたりするので、今までずっと半ば諦観の面持ちで沈黙主義を貫いて生きてはきたが、人との繋がりを得るには、やはり自分から湧き出る何もかもを、この世に残していかなければならない。そんなことを強く感じたのである。

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