無敵マンのニート日記

臆病な性格をした無職。自由主義者。 Twitter→@mutekiman_xxx

自由主義者の臆病な性格をした無職が、人生の一コマを書き連ねております。Twitter→@mutekiman_xxx

親以外を愛せない病。

人の痛みに目を向けると、ただただ自分の不甲斐無さだけが募っていく。なぜなら本当の痛みは本人以外に分かり得ないし、その痛みの最善の癒し方についても、恐らくは本人以外に知る由が無いから。例えば、医者にかかるかかからない一つとっても、それは本人の感じる痛み次第で変わってくる。

こうした事を思うと、他人の痛みを考えること自体に、私はあまり意味が無いような気がしてくる。

だけども、他人の痛みを考えたり、それで思い悩んだりせずにはいられない事だって、私にもあるにはある。それはどんな人に対してかというと、まず親がそう。親は私を育ててくれた。もしも親が全く痛みを伴わずに私を育てあげたのだとしても、私は親が私の為に割いてくれた時間や労力を、全く無かったものとして見ることが出来ない。直接的な痛みの有無に関わらず、人生のただ中に私という存在が関わった時点で、私はその関係した人の貴重な人生の一部を占領したことにもなるだろうから。

考えてみれば、これは大変重大な事だと、今更ながら思う。もちろん、その占領した総量によっても、話は全然変わってくるだろうけど。道端でふと目が合った赤の他人、すぐ辞めたバイト先の同僚、学生時代を共にした同級生…私が関わってきた人たちにも色々いるが、中でも私が一番人生を占領していると思える人間、それは、やはり親しかいない。

関わる時間が多ければ多いほど、見方を変えれば、それはその人の人生を奪っているともとれるわけで、私はその分、その人に対しては恩で持って返したいというか、もっと別な言い方をするなら、奪った分だけ、その人の為に私は苦しんで然るべきだとも思えてくる。

愛とは苦しみなのかもしれない…

思い返すと、これまで私は親以外にも色々な人の人生の一部を占領してきたはずで、それに対して私はいちいち思い悩んだりはして来なかった。それはたぶん、親が私にかけた苦しみを第一として考え、それを基準にして他者を測っていたからであって、つまりは親以外の他者への敬意があまりに足りなさ過ぎたのだった。

愛を量で捉えると、人と人とを比較して、とたんに愛すべき人間と愛すべきで無い人間とを判別してしまう。私が親以外を愛せないのも、たぶんこの考え方が原因だろう。

そもそも論として他者の人生を占領したくない・苦しめたくないというのはもちろんあるが、それを言ってしまうと誰とも関われなくなってしまうので、そこはあまり考えないようにしていきたい。

人は互いに苦しめ合う中でしか愛し合えない。


差別の無い愛の為には、「私の為に他者がいかに苦しんでくれたか?」という視点よりも、むしろ「私が他者の為に、いかに苦しめているか?」という視点に立って日々を過ごしていきたい。

貰った数を数えるよりも、あげた数を数えた方が、恐らく他人を比較しなくて済むだろうから。

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