無敵マンのニート日記

臆病な性格をした無職。自由主義者。 Twitter→@mutekiman_xxx

自由主義者の臆病な性格をした無職が、人生の一コマを書き連ねております。Twitter→@mutekiman_xxx

自分の反応をウォッチする

芸術家は芸術活動に不可抗的でなければならない。

芸術活動とは人に影響を与える事であり、人に影響を与えずにはおれない人間(芸術家)というのは、つまり他人がどのような反応をするのかに興味がある人間なのだろう。

この知的好奇心の根底には人々の個性の肯定がまず大前提としてあり、だからこそ一つの事象に対しての多種多様な人々の反応に興味が湧くのだろうと思う。

また、他者と自己との違いを明瞭に認識することが個性への寛容・興味に繋がるのだとすると、もう一つの前提条件として「事象に対する自己の反応」をしっかり認識しておくべきとも言える。どちらかといえば私はこの自己の反応をあまり明瞭に認識出来ていない気がするのだ。例えばある殺人事件のニュースを見て「怖いな」と思ったとして、なぜ怖いと思ったのかをちゃんと説明できないような気がしきりとしている。だとすると、その自己のものと思われた事象に対しての反応は、実はコメンテーターや大衆の声を反射的に頭の中に思い描いただけに過ぎないという事も十分有り得るということ。TVなどのコメンテーター付きの報道番組の欠点はそこにあると思う。自分が反応する余地も無しに他者の意見を聞かされるというのは、自己の反応を認識する力、いわゆる自己を知る力を身に付けるための手段を視聴者から奪っているとも言える。

このことを踏まえた上で、自分の表現行為が芸術活動なのか、単なるお節介なのかということは今一度吟味する必要があるだろう。お節介が芸術活動と異なる点は、確固たる正義があるという思い込みのもと、相手の反応を見るまでもなく正しいと思われる行為を成すことで、つまりここには個性の否定(全ての人は同じである)と、その原因として自己反応の純粋性の吟味の欠如があげられる。

人を好きになるには、、いやせめて人を拒否しない為には、なによりもまず自己を知るということの必要性を再認識した次第。

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