無敵マンのニート日記

臆病な性格をした無職。自由主義者。 Twitter→@mutekiman_xxx

自由主義者の臆病な性格をした無職が、人生の一コマを書き連ねております。Twitter→@mutekiman_xxx

世界平和を考える無職。

個性の肯定・許容は生産者サイドの人間に与えられた課題であって、消費者側の人間にとっては考える余地もないことである。なぜなら彼らは目の前の個性を好き嫌いで判断するだけで、自分と似た者か自分の好きな人間以外は全て消費効率の敵であり、社会の敵としか見なさいから。

そもそも人を消費物と認識しているから好き嫌いの判断が起こるのであって、人を生産者と認識していれば、それは一つの個性として許容できるはずなのである。

結局、何事も消費することで足れりとする消費者側の人間であり、また人を消費物としか考えられない脳である以上、異なる文化や宗教、人間そのものを、一つの個性として尊ぶことは不可能な気がする。

私の最近の悩みは、そのように尊ばれないことを前提として、果たして私が消費者側の人たちと良い人間関係を築いていけるのかということ。

生産者と消費者間において、良好な人間関係は果たしてあり得るのかというのが疑問なのである。一生産者として、消費者を「人間」として認めていいのかという疑問なのである。

消費者が人を消費するのと、生産者が消費者を消費するのでは、これまた全く同じことであり、だとすれば、私が理想としていた個性を許容しあえる平和な世界などといったものは、全人類を生産者にする以外に無く、現実的に考えて不可能なんじゃないかということになってしまう。

私のような生産者気質の人間は最早、世界平和の不可能性という絶望の中、ただひたすらに個をひけらかし、大勢の消費者気質の人々から殺伐とした目線を投げられ続けながら、死ぬまで孤独に生きていく他ないのかもしれない。

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