就活生はバカだと思ってます。byニート
目の前に針の山があったとする。
あなたは裸足です。登ればもちろん、足の裏にブスリと針が刺さり血が出ます。
その針山に登れと言われてあなたは登りますか?
普通に考えて登らないですよね?
では、靴を履いているとします。だとしたら登りますか?
わざわざ登らないと思います。
では、登ることが当たり前の社会で、登らないことが、社会からものすごく非難されることだとしたらどうですか?
靴を履いたあなたなら仕方なく登るかもしれませんね。
私は登りません。
なんでわざわざ針山を登らないといけないんですか?バカでしょう。
針山を越えた先に、自分が喉から手が出るほど欲しいものがあるのなら、私は覚悟を決めて針山を登るでしょう。
しかし、ただ針山を登れと社会から言われただけでは、登る意味が無いと私は思うのです。
だから私は、皆さんが針山を登っているのを見て不思議で仕方がない。
目の前の困難というものは、その先に価値の有るものが無いと乗り越える意味が無いと思うのです。
過去の記事で私は、目の前の壁を登る意味があるかどうかは、その壁を登ってみないことにはわからないと言いました。
しかし、それはある意味、とてつもなくギャンブル性の高いものだとも思うようになったのです。
目的地が無いのに車を走らせているバカと同じです。
「車を走らせてみないことには目的地にたどり着くことは無い」という言い分はわかりますが、走らせたからといって目的地にたどり着くとも言い切れないわけです。
宝くじを買わないことには大金が当選することはないと言ってるのと同じですね。
まさにその通りなのですが、宝くじを買ったからといって大金が当選する保障は無いのです。
やはり、そういうことを考えると「目的地を最初に決めておく」というのが一番効率的だという結論に至るわけです。
この場所にいくんだ!!という強い信念があるから、途中に針山があろうと壁があろうと目的地に向かって一直線に突き進むことができるのです。
壁を登るから目的地に着くのではない。
目的地に向かうから壁をも登ることができるのです。
私には、目的地が無い。
それは、それほど行く価値のある目的地を発見することが出来ないからかもしれないし、
目的地が遠すぎるから、面倒で車を出す気になれないだけなのかもしれない。
私の理由はきっと、前者である。
針山に突き進んでいった皆さんは、きちんとした目的地を持って突き進んでいったのだろうか。
もしそうだとしたら、私はものすごく自分がダラシない人間に思えてくるに違いない。
しかし、そうではなく、皆さん目的地も無く車を走らせているようにしか見えないから、私は今でも自分の立ち位置にあまり悲観してないのだろう。
目的地が無いのなら、わざわざ車を出す必要なんて無い。はじめから家にいた方がマシなのだ。
家がものすごく貧乏であったり、親がうるさい家の場合、家を出てどこかで働き自立した生活を送るといった目的地が半強制的に決定するだろう。
そういった人は、目的地を誰かに決めてもらえることで、逆に楽になったという人もいるし、ただただ苦痛であるという人もいる。
立場は人それぞれなので、私の言うことはすべての人に当てはまるわけではないということはわかっている。
一つ重要なのは、自分が今どんな立場に置かれていようが、目的地がハッキリしていないことには、針の山は只々痛いだけだということである。
針の山の中腹で、痛みに耐えられなくなれば、そのまま針に頭を突き刺してしまいたい気持ちにもなると思う。
痛みに耐えられるのはいつの時代も、明確な目的地を持った者だけなのだということ。
それを私は言いたかった。