無敵マンのニート日記

臆病な性格をした無職。自由主義者。 Twitter→@mutekiman_xxx

自由主義者の臆病な性格をした無職が、人生の一コマを書き連ねております。Twitter→@mutekiman_xxx

自意識を持つことは恥ずかしいこと。

無敵マン

全体のために自分がするべきことがわかっていないと、人は放逸にふけり怠惰な人生を送ることによって最後に絶望し苦しむだろう。


一方で、自分のするべき事をちゃんと理解して生きていると言う人間。それはただの思い込みである。そのような人間はただ、自分という存在を肯定して欲しいが為に生きているだけであり、そんな人生はスッカラカンで中身が何も無い。そのまま生きれば、最後には虚無感しか残らず苦しむことになるだろう。


本当にするべき事をやっている人間なんて、この世にいるのか?


いるにはいるのだろう。


私は違う。私はただ自意識にとらわれて人生を無駄に生きてきたバカだ。


今も自意識にとらわれている部分は往々にしてある。すごいバカだ。



自分にとらわれてしまうと、人はどうしても自分を肯定して欲しいという欲が出る。

そのような欲が出ると、やることなす事全てが無意味で虚無的なものになる。


絵を描くのだって、文を書くのだって、ライターになりたいだの画家になりたいだの、哲学者になりたいだの、異端者になりたいだの、デキル人間でありたいだの。


そんなものは全て自意識のとらわれ。


そのような理想的な自分になれば、自分という存在を周りから肯定してもらえると思って、それだけにとらわれている。


絵を描くのが好きなのでは無く、絵を描いている自分が好きなのであり、ライターになって何を社会に提供したいのか?と考えているのでは無く、ライターという肩書きを持った自分に憧れを抱いているだけなのである。


どれも全く意味が無いし、中身が何も無い。


物事の中身というのは、社会に対して何かを提供することで初めて生まれてくるものである。


自意識にとらわれている人間は、自分が社会に対して何をしていくべきなのか?という本質がいつまで経っても見えてこないのだ。



私という存在は実際には無いのだと、はやく気が付かなければならない。


今の私は、明日になると1日老けた人間となり、考え方や知識の量も微妙に異なる。それは昨日と同じ私ではない。違った私である。


0.001秒ごとに違った私が連続していくだけ。


私は存在すると言い終わった頃には、違う私がそこに存在しているのだ。


つまり私なんて存在しない。存在することが不可能なのだ。


存在するはずもない私を、周りから肯定して欲しいと思う事はあまりにもバカげている。


必死で何者かになろうとしている私は、ただの幻想を追いかけているにすぎない。私は存在しないのだから、何者かになることもできない。不可能な話なのだ。


鏡に映った自分の顔や姿を見たりすると、自分は存在していると錯覚しやすい。


社会に対して自分のやるべきことをキッチリやっていく為には、この自分という存在のとらわれ、錯覚を、無くさなくてはならない。


これは私が無敵マンになるための課題だ。


私にとって無敵マンとは、仏教でいうニルヴァーナと同義である。


しかし、ここにきて自分でも自分がわからなくなっている。


このように、無敵マンになろうとすることも自意識なのではないか?


ただ目の前にある、やるべきことを集中してやればいいだけなのに、今もこうして自意識にとらわれている自分がいる。


私は存在しないのに、自意識…


いかに自意識が自分という存在にこびりついているのかがわかる。


タイトルに「自意識は恥ずかしい事」と書いたが、恥ずかしいと思う気持ちも自意識だ。


自分は存在しないということを認識できている人間は恥という感情を抱かない。


私は存在しない。


それを今日も明日も明後日も、しっかりと認識して生きていく。


それが私のやるべき事だ。

社会の除け者は神に選ばれし救世主。

無敵マン

【働きバチの法則】(2:6:2の法則)

組織は必ず、2割のデキル異常者と6割の正常者と、2割のダメな異常者に分類される。


この中で唯一社会の除け者になる者はどれだろうか?


2割のダメな異常者である。


では、この2割のダメな異常者のみを寄せ集めて組織を作ると一体どうなってしまうのだろう?


この中でも働き蜂の法則が働き、デキル奴とダメな奴に分類されたりするのだろうか?


かつて底辺工場で派遣労働をしていた僕は、この答えを知っている。


結論から言うと、これが見事なまでに働き蜂の法則と合致し、分類されてしまうのだ。


つまり、一般社会では通用しないダメ人間でも内8割は正常に機能し、残りの2割が機能しなくなるのである。


最初に10人いたのに1週間後にはその内の2人がバックれて居なくなり、残された8人になるとまた同じように1週間後にはその内1〜2人が居なくなる。


「組織の2割は必ず除け者になる」


この法則は、蜂の社会でも人間の社会でも、例えそれが、ダメ人間のみで形成された社会だとしても忠実に働くよう出来ているのである。


そこで僕は解決策を考えてみた。


では仮に、これを10人の組織で観察するのではなく、2人1組の組織を5つ作って観察してみたらどうなるのだろうか?


2人だけで完結する組織なら、その内の2割を分割することなどそもそも不可能であるから、除け者を発生させずに済むのではないだろうか?


こうした状況についても、僕は工場派遣で経験したことがあるので、どうなったかを知っている。


どうなったのかというと、やはりここでも働き蜂の法則が働いた。


2人の内、1人が優れて、1人が劣るというような状態になり、劣った方の人間が機能しなくなったのだ。


最終的には、5つあったグループの内、4つのグループが機能しなくり、最後まで残ったグループは1組だけだった。


その残った1組のグループの中に僕は入っていたわけだが、


なぜ、僕のいたグループだけが最後まで上手くいったのかというと、それにはちゃんとした理由があった。




僕のグループも他グループと同様、1人が優れ1人が劣るという風に、グループ内で格差が生じた。


自分で言うのもアレだが僕が優れた方で、劣った方がB君だ。


B君は一体どんな人間なのかというと、作業前に上司から「この扉だけは絶対に開けるな」と何度も忠告されていたにも関わらず、平気な顔して扉を開けるような人間である。


決して悪気があってやっている訳では無いんだろうけど、2人で作業してる僕からすれば冗談では無かった。


「絶対開けるな」という忠告からも分かるように、扉を開けると中から有害物質が周囲一帯に飛散し、B君のすぐ隣にいた僕にまで危害がおよぶ状況だったのである。


B君は「あっ!開けちゃった…」と反省はするものの、しばらく経って作業が慣れてくると、また「アッ!!」と叫んで


まさか!と思いつつB君の方をパッと見ると、案の定B君が扉を全開に開け放っているのだ。


この時の僕の気持ちを想像できるだろうか?


そうした場合、一般的に考えて、優れている方の人間はB君のような劣った人間を強く責め立てるはずだ。


「なんでこんな当たり前の事ができないんだ!?俺を殺す気か!?」と。


たとえ口に出さなくても、怪訝な態度を取ってしまうはずである。


しかし、そうした相手を突き放したような態度は、劣った人間をただ落ち込ませるだけで結局何の解決にもならないことが多い。


なぜなら、「劣った人間はどこまでも劣っているから」である。


他人から注意されて、すぐに優れた人間に変わることのできる人間は優れた人間なのであって、それが出来ないから劣った人間なのである。


それを理解せず劣った人間を責め立てるから、彼らは傷付き、または腹を立て、組織を脱退していくのである。


僕はミスをしたB君が申し訳なさそうにしているのを見て、最初は注意したけど、責めたり怪訝な態度を取ったりはしなかった。


B君がダメな異常者である事を察知した僕は、B君がミスをすることは避け難い事なのだと理解し、そんなB君でも出来るだけミスを犯さないようにと、常にB君を監視し、B君が扉を開けそうなタイミングを見計らって注意を促したり、とにかく僕は全力でB君をサポートする姿勢に徹したのである。


その努力が功を奏してか次第にB君はミスをしなくなり僕らのグループは最後まで上手くいったのであった。


他のグループを見ると、どこのグループも優れた方の人間が劣った人間にキレていて、「アイツ早く辞めてくんねーかなぁ」といつも愚痴をこぼしていた。


きっと現場では優れた方が劣った方を責めたり、怪訝な態度を取っていたのだろう。


「組織が壊れる原因は、常に優れた人間の側にある」と、僕は今回の事件で学んだ。


優れた人間が劣った人間を理解し、サポートできれば上手くいくのに、優れた人間は中々そうしようとは思わない。


なぜなら彼らは、劣った人間に骨を折ってまで自分の身を削りたくはないと思っているからであり、また、劣る人間を見下すことによって自分の優位性を周囲に評価してもらいたいという思いもあるからである。


優れた者が劣った者を排除することによって、この社会は回り続けている。


その動きを止めない限り、除け者は永遠に増え続けることだろう。


私利私欲によって創造された現代社会は今も世界の終焉に向けて進行中だ。


誰かがこれを食い止めねばならない。


「社会全体のためを思い、自分の好みや判断を一切無くし、自分のやりたい事ではなく、社会全体のために自分がやるべき事をする。」


こうした事を優れた人間たちが出来ないのであれば、劣った人間や社会の除け者となった人間たちで実行していくしかないだろう。


我々のような除け者は、神に遣わされた救世主なのである。


神に選ばれし者達よ。


時は来た。


我々が立ち上がるべき時が、今、目の前にやって来たのである。

錯覚を見て満足する現代人。

無敵マン

人間が「暇だ」とか「つまらない」だとか言う原因のほとんどは、「その人が新たな情報を理解しないでいるから」の一言で全て説明がつく。


昨日と違う道を歩いてみたり、入った事のない店に入ったりするから、人間は新たな情報を理解し、面白いと感じるのだ。


現代では、人が新たな情報を理解するための媒体として、文や写真、動画などが存在しているが、この中でも今最も人気があるのは間違いなく「動画」である。


今の若い子を見てみるがいい。暇さえあればYouTubeかAmazon videoかavgleにかじりつき、必死で何か新たな情報を理解しようとしている。(俺のことだ)


「暇を潰したいなら動画を見ろ!!」と声高らかに叫んだところで誰も反論してこないくらい、今は「動画の時代」なのである。


動画という情報媒体の一番の魅力は、「多くの情報を短時間で得られる」ところにある。


効率を求める現代人にとって、それは最も魅力的な「新たな情報を理解するための媒体」になっているわけだ。



しかし私は、このクソッタレた「近代効率動画社会」に住まう「現代人」どもに物申したい。



「ツマラナイからといって毎日動画を見てる人間たちは所詮、錯覚を起こして満足した気になっている不幸人にすぎないのだ」と。


現在、動画ほど「リアリティ」に優れた情報媒体は他に無いが、実はその「リアリティさ」が逆に仇となっていることには未だ誰も気付いていない。


動画というものは、あくまでリアルに限りなく近い「リアリティな情報」なのであり、それは決して「リアル」では無いのである。


にも関わらず、それを「リアルと勘違い」し、本質そのものを理解したかのような気になっている不幸人が現代社会では急増しているのだ。


雄大な景色も、森に住む虫たちの姿も、バカな人がバカなことをするという貴重な光景も、女と男がセックスしてる場面も、動画という情報媒体を通せば、我々はそれをほぼ理解した気になり、それで満足して終わってしまうのである。


あなたにも心当たりはないだろうか?


それで満足出来てしまうということは、わざわざ自分の足を使ってリアルを体験しに行く「意義」も「必要性」も無くなってしまったということを意味する。


「引きこもり問題」や「少子化問題」


考えてみればこれらの問題は動画の普及によって急増し始めた問題だ。



現代人諸君…



我々は今後動画をなるべく避けて生きた方が良いのかもしれない。


「本当のリアルは一体どんなものなのだろう?」と想像を掻き立て、少し物足りないくらいの方が我々の使用する情報媒体としては相応しいのかもしれない。


時代を一昔前に戻して、「人との会話」や「文章」という情報媒体に再びスポットライトを当ててみる。


錯覚に満足せず、自分の足で真実を見に行く人間になりたいのであれば、今後は動画を一切見ないことだ。



p.s.

僕が小学生の頃は「ネット動画」なんてほぼ無いに等しい時代だったから、当然エロ動画を今みたいに無制限に見られるはずもなく、当時はひたすら想像力をMAXにしてクラスの女子をズリネタにしていたものである。

あぁ、あの時代が懐かしい。

「動画」によって簡単に性欲を満たせるようになってしまった今、僕らの想像力は徐々に奪われてゆき、女子に対する積極性もまた失われてしまったのではないか。

あぁ、あの時代が懐かしい。

真実を求める、心清き少年よ。錯覚の虜になってはならない。あの頃抱いた、あのトキメキよ。もう一度わたしの元へ舞い戻るのだ。