無敵マンのニート日記

臆病な性格をした無職。自由主義者。 Twitter→@mutekiman_xxx

自由主義者の臆病な性格をした無職が、人生の一コマを書き連ねております。Twitter→@mutekiman_xxx

この世の愛はニセモノだ。

無敵マン

皆愛情を欲している。

しかし私は愛などいらないと思っている。

だって皆愛情に見返りを求めてるから。

見返りを期待した愛情なんて貰っても嬉しくない。

愛情の理想形がギブアンドテイクなのはわかってる。貰ったら、返す。そうすることで自他共に幸せになれるから。

でも、それはただの理想形に過ぎない。

愛を貰ってすぐ返す人もいれば、中には全く返さないという人だって現実には存在する。

全く返さない人には与える側もだんだん腹が立ってきて、愛情を与えることを時期に辞めてしまうだろう。

腹を立てて与えることを辞めるということは、やはりあなたが与えていた愛情は見返りがあることを前提にした「条件付き」の愛情だったということの証明になる。

このように考えると最終的には皆自分を愛してもらうために他人を愛しているのだということが分かる。

これは親子関係のこじれた家庭などを見るとよく分かると思う。

最初は愛していたはずの子供が意に反して自分勝手な子供に育ってしまい、今となっては親は子供に死んで欲しいとすら思っていて、実際に親の方から子供との縁を切ってしまうというような家庭だ。

縁を切られた子供は犯罪に手を染め、悪魔のような人間になり、社会に迷惑をかけ、人を不幸にし、自分も不幸なまま死んでゆく。

正しい愛情を注がれなかった人間は社会との正しい関わり合い方を知らぬまま死んでゆくのである。


「見返りを期待した条件付きの愛情」は人を歪め、社会を歪めていく。


そんなニセモノの愛なんていらない。


「無条件の愛」


私が求めているのはコレに尽きる。


愛とは無償であるべきだし、無償であるからこそ、それは本当の愛といえるのだ。


だけど、無条件の愛を与えられる「強い人間」なんて、この世にはほぼいないと言っていい。


私は生きてる内に、そういう強い人間に是非会ってみたい。

そして私もそういう強い人間に進化したい。


今の私は所詮、愛を求める側の人間でしかない。

愛を求める人間は弱い。弱いから、愛を必要としている。


人が弱いのはなぜか?人が愛を求めるのはなぜか?


→世界をありのままに見れていない

(この世は苦,無常であるという真実が見えてない)

→我欲を捨てきれていない

(自分に執着している)

→愛情不足

(今まで条件付きの愛情しか貰って来なかっ た)


強い人間は他人を正しく愛することができるが、弱い人間は正しい愛情を受けて来なかった為に他人を正しく愛することが出来ない。


他人を愛せない人間が他人から愛されることはまず無いので、そういった人間は自分で自分を愛するしかない。


だから、自分勝手な人間になっていく。


でも自分勝手な人間だけが悪いとは決めつけないで欲しい。だって、彼らを正しく愛さないことによって自分勝手にさせてしまった周りも悪いんだから。


今の世の中、強い人が少な過ぎる。


弱い親、弱い子供、弱い教師、弱い同級生、弱い社会人、弱い社長、弱い大人。



無条件に他人を愛することのできる強い人間が今のこの社会には必要だ。


だから私は仏教を学び、強い人に会いに行くつもりだ。強い人に弟子入りして学びたい。


だが私は強い人間を今まで一度も見たことがない。


強い人間って一体どこにいるんだろう?

あなたはどっち側の人間?

無敵マン

正義に一貫性がある人間と正義に柔軟性のある人間、どちらが正しいか?


正義に一貫性のある人間は、自分の中の正義に絶対的自信を持っており、その自信は思考の吟味や実体験を通して得られたものであるはずである。そして、一貫性を持った正義というのは真理であるから揺るがない。反対に、揺らぐ正義は真理でないから本質的な正義とは呼べない。

一貫性とは悪く言えば頑固とも取れる。頑固といわれようが、頑固な正義こそ本当の正義なので悪い意味で言われようが何の問題もない。


柔軟性のある正義の良いところは、社会性のある所である。この世の中では、大多数の正義に合わせることで上手くやっていける部分がある。本質的には正義でも大多数の中で悪だと見なされると、それは悪になる。それが社会というものだ。世の人々と対立する事なく仲良く生きていきたい人間にとって本質的正義などは役に立たない。なぜなら、時には悪も正義にしないと世の人々と仲良く生きていけないからである。

柔軟性を悪く言えば、人に流されるとも取れる。皆んなが人殺しをしていれば自分も流されて人殺しをする。皆んなが「あいつは悪い奴だ死刑にしよう」といえば、自分も加担してイジメ殺す。本質的正義とはかけ離れているが、自分が周囲と上手く関係を築いて生きてくという目的に際しては正義となる。


この2つを比べて分かるのは、柔軟性ある正義というものが、そもそも正義では無いということ。

本質的な悪を大多数の声によって正義と錯覚して生きている人間が、果たして正しい人生を歩めるのか?

こんなことは考えてみればすぐに分かることだ。それなのに、大多数の人間はどうやら柔軟性ある正義を好むようだ。バカなんじゃないかと思う。


きっとこの世は、そんなバカ達と、そのバカ達を導く賢い人とに二極化されて成り立ってるんだろうと思う。


小学生の頃に何かを決めるときはいつも多数決であったことを思い出すと、私たちは既に小学生の頃からバカになるよう大人達から洗脳されていたのだろうということに気づく。

それはもう仕方の無いことなのかもしれない。


皆と同じようにバカになりきれなかった一部の人間は、彼らを導く側に回らないと一生気持ち良く生きることは出来ないのだろうなと思う。だって、大多数の彼らとは本質的に人間の質が違うんだもの。彼らと同じ立場で上手くやっていける訳が無い。


やはり僕は指導者になるべき人間なのだ。


それが今ハッキリと分かった。

芸術は麻薬なので取り締まるべき。

無敵マン

少し前まで僕は芸術家になりたいと思っていた。画家や彫刻家になりたいと思っていた。


なぜかというと、画家や彫刻家という職業は完全に一人で出来るし、それなりに美しいものを作れば必ず需要は存在し、それで生計を立てることは可能だと考えたからだ。


しかし最近になって、美しいモノにだんだん魅力を感じなくなってきている自分がいる。


美しいモノを見ると癒されたり、良い気分になることは間違いない。


だけども、それは一時的なものでしかなく、仮に1日中見ていたからといって幸せな気分が続くかというと、そうはならないのだ。


美しいモノはいずれ飽きる。


そして、一時的な快楽から本質的に得るものなど、結局のところ何も無いことに気付く。


そのような結論に至ってしまった瞬間、僕の芸術に対する価値観が180度変わってしまった。



なんてクダラナイものなんだ。



絵画、彫刻、音楽、演劇、、全てがとてつもなくクダラナイものに見えてくる。


最近は映画もまともに楽しめなくなってきてしまった。


芸術というものの全ては非現実的であり、非現実的なものは、人々の理想を錯覚によって叶えるものである。


多くの人々が芸術に惹かれる理由は何なのかというと、彼らが常に理想を追い求めているからに他ならない。


現実社会では思い通りにならないから、人々は理想を見たくて見たくてしょうがないのだ。


そして理想はしばしば妄想を引き起こす。


考えても仕方がないことを永遠と考える。



こういった生き方は苦しみしか生まない。



理想や妄想なんかを見つめて生きるのではなく現実を見て生きなければ、我々人間は前に進めない。


短期的な快楽で人々を釣って、長期的には人々を理想や妄想に夢中にさせ人生を台無しにさせる。


それってまるで麻薬みたいだ。


もしそれが芸術なのだとすると、やはり僕は芸術を積極的に好きになることは今後ないだろう。