無敵マンのニート日記

臆病な性格をした無職。自由主義者。 Twitter→@mutekiman_xxx

自由主義者の臆病な性格をした無職が、人生の一コマを書き連ねております。Twitter→@mutekiman_xxx

街に小さな火を放て。

危機的状況のない平和な日々からは学ぶべきことがほとんどない。火事場の馬鹿力と言う言葉にもあるように、火事場に自分の身を置いて初めて人は真の自分の力と言うものを知るのである。しかし火事場というものは、自ら赴かない限り中々遭遇できるものではない。

時たま、飲食店で不良行為を働き、その動画を全世界に発信して自滅している若者がニュースになったりするが、あれは言ってみれば、家に火をつけ、自分は安全な場所でそれを眺めるつもりだったのが、知らぬ間に背後に火が燃え移り、不本意ながら焼死してしまった残念なケースである。自分の死を覚悟して放火したのではなく、単に利己的に悪事を働いたという点が無様なのである。

自己探求に熱心な者は、決してこのようであってはならない。他人の家に火をつけたなら、自分が焼死する覚悟を持ってして、その家の住人を救うところまでやるべきなのである。

危機的状況を自ら作り出し、それによって他者が救われる。この構造を念頭に置いた者は、いくらでも臆することなく危機的状況を創り出すことが出来る。

家に火をつけるという行為が、もはや罪悪感によってではなく、利他心や慈悲心によって行われるという点で彼は英雄なのであり、自信を持った危機製造者たり得るのである。

ただ、それでもやはり自分が死んで仕舞えば元も子もない。自己探求とは自己成長の為にあるものなのだから、死ぬ覚悟ではなく、少しケガをするかもしれない程度の覚悟に抑えつつ、火をつける場所も巧妙に配慮しなければならない。

戦士の眠り。

泥のように眠ったのは何十年ぶりかもしれない。ただ眠った時間が長かったという意味ではなく、完全に肉体から魂が離脱したかのように眠ったという意味でである。こうした眠りからの目覚めは死人が息を吹き替えしたかのような恍惚感さえ私に抱かせる。一度死んだ身が再び生を与えられたことに対して、私はいたく誰かに感謝をしたい気がした。いつもは眠いか眠くないかに関わらず、決まった時刻になると床に着いていた私だが、昨夜は眠る時刻をまるで無視して、気付けば翌日の昼過ぎまで起きていたのだった。この生活態度は、ともすると武士の精神に近いものがあると思う。なぜなら、守りに入るのではなく、自分の命にまるで執着のないかのごとく「攻めの姿勢」によって生きているからである。本来闘うというのは、こうした生き方のことを指すに違いない。

保身の日々の中では、決して死が訪れない。眠っている時でさえ「生きていたい」という無意識的な生への執着があるようで、そんな眠りからの目覚めには自己の生を歓迎するという感覚が生まれてこないのである。

最近はあまり睡眠時間を確保出来ておらず寝不足気味だが、私はこの眠りの尊さを知って、もっと攻めていっても良いのだと気付いた。

逆に言えば今までの私は、ずっと死を恐れて生きてきたということだろう。

どんなに惨めな人生でも良いが、私は最後まで武士として生き続けたい。

自分の無力さに対する怒り。

怒るという事が私を学習に向かわせたようである。ある行動を取った結果として、ひどい仕打ちというか、無残な現実を突きつけられた。

この思わしく無い結果が、どうやら私を怒らせてくれたらしいのだ。

思うに、やはり怒りというものは行動と深いつながりがあって、行動が思うようにいかない結果として怒りがあり、その怒りがまた次なる行動の強い原動力を生む。一度このサイクルに入ると、生活はかなりキビキビとしたものになる。無力な自分を「行動の結果」として知り、深い悲しみや怒りの感情を発する。こうした一見ネガティブで避けられがちな感情は、実は無気力を脱する唯一の原動力になるのである。私はその事を最近身をもって知った。正直言って今の私なら何でもできる、そんな闘争心のようなものが、心の中でメラメラと燃えているのを実感している。