無敵マンのニート日記

臆病な性格をした無職。自由主義者。 Twitter→@mutekiman_xxx

自由主義者の臆病な性格をした無職が、人生の一コマを書き連ねております。Twitter→@mutekiman_xxx

落ちる。

落ちる。意味もなく、ただ私は落ちている。周りには私に見向きもせずに会食、談笑している人々が見受けられる。彼らと私との間には、決して割ることのできない透明のアクリル板で隔てられており、私は助けを呼ぼうにも、どうすることもできない。大声で叫んでみても、板にぶつかってみても、彼らはこちらに見向きもしない。いずれ私は地面に叩きつけられ、粉々になって消え失せる。それについても、板の向こう側にいる楽しげな人々にとっては、知ったことではない。

私はただただ落ち続ける。地面はまだ来ないかと、地面に恋い焦がれてみたり、落ち続ける苦痛から少しでも意識を取り払おうと、眠りに逃げ込みさえもする。だがしかし、気づくと私は落ちている。この避けられぬ苦悩の状況から、もはや私は抜け出すことは出来ぬのだと悟る。

ならばと、私は地面が面前するよりも前に死んでやろうと思いつく。自らの手で自らの胸を裂き開き、自らの鮮血でもって板の向こうの人間たちに、1つでも楽しみを与えてやろうというのだ。見向きもされず死にゆくのなら、どうせ死にゆくのなら、彼らに1つの楽しみを与え……いや、私がこの世に存在したと言う証を、彼らの記憶にたった一つでも刻みつけてやろうと思ったのである。

自分のあり方

今まで4人、3人で生活してきたのが、父と2人の生活に変わって、自分のあり方みたいなものも変化したように思う。僕は元々の性格として、「必要とあらば動く」と言う合理主義の中で生きてきたので、自分の欲とか感情といったものがほぼほぼない。

だから、例えば友人同士3人で遊んでいる時でも、僕以外の2人同士で会話が盛り上がっているとすれば、その時僕はそのムードを邪魔しないよう、極力黙ると言う判断をとる。要するに自分の出番では無い、動く必要性がないと判断したなら、僕は全く動かないということになる。

母とともに3人で生活していた時というのは、僕の出番は正直あまりないと自分自身考えていたのだと思う。父は僕と言うよりも、母にその精神的安らぎを求めていただろうし、母は母で、何も言わずに家のことを全部こなしてくれていた。この完成されたシステムの中では、僕の存在はあってもなくても良いものだと、そう気楽に考えていたように思う。自分ではほとんど労力を割かずにこのシステムの中でただただ恩恵を受けていたのだから、かつて母がよく私に「お前は甘えている」と言ったのも、今となっては納得できるような気がする。でも、やっぱり僕はどこまでいっても合理主義者なのである。人の気持ちをあんまり考えられないような人間であるし、何事においても実際に目に見えるものでしか物事を判断できない。そこが多分母や父、その他大勢の人とは違うところで、食い違いが起こるところでもあるのだろう。とりわけ母は、何でも自分でやって、その無理している自分の気持ちを察して欲しいタイプの人だと思うので、究極なまでに察せない自分とはモチロン馬が合うはずもない。

今回母が入院したのを目の当たりにして、はじめて、母は今まで無理をしていたのかもしれないと思うことが出来たし、家の中でのシステムが崩れた事で、その埋め合わせをするべく僕の出番がやってきた。だけども、僕は絶対にムリはしない。なぜなら、僕には出来ることはもちろんあるけど、出来ない事もあるから。母が得意とするような、人の気持ちを汲み取ったり、理解するといったような事は、残念ながら僕には出来ないし、今後ムリしてやるつもりもない。それは、父には都合の悪いことかもしれないが、どこまでいっても僕は僕だ。流石にそこのあり方まで変えるつもりはない。いや、というより正確には、変えられるものではないのだ。

死について考えてみた。

あなたは死について考えたことがありますか?


普段何気なく生きてれば、考える事すら無い人も多いかと思います。


私事ではありますが、最近母親の体調が悪化しており、死について考える機会が増えましたので、個人的に考える「死」について、今回色々とYouTubeで語ってみました。



「死」について、考えてみた。


死とは何なのか?


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