俺は落ちこぼれた側の人間。
この世には成功者と落ちこぼれ、2種類の人間が存在する。
そのどちらになるかの分岐点は、小学生〜現在までの成功体験の数で決まる。
過去の成功体験の数が多ければ多いほど、現在、未来へと、成功する可能性が高くなる。
人間とは、そういう原理で成り立っているものだ。
私は高校生時代の「友達づくりの失敗」によって、圧倒的な無力感を抱いた。
小学〜中学時代は、いつも同じ人間とつるんでいたため、友達が全くいないという状況にはならなかったが、高校は都会の高校へ進学したため、いつもの友人がいない環境でのスタートとなり、友人の作り方が分からなかった私は高校時代、圧倒的に孤立した。
友人の作り方は分からなかったが、自分なりにも友人を作る努力はした。
初日にいきなり後ろの席の人に話しかけたり、席を立って気になる人に話しかけに行ったり、過去の俺では絶対にしないであろうことをたくさんしてみた。
その結果、確かに友人というものはできた。
しかし、どことなくつまらない毎日だった。
ゲームで盛り上がっている友人、カラオケで盛り上がってる友人、ゲームセンターで盛り上がってる友人、全てに加わり私もいっしょに盛り上がろうとしたが、正直何が面白いのか全く理解できなかった。
まぁこれは中学2年くらいからそうなんだけども、とにかく同世代が楽しいと感じてる娯楽に全く共感できなかった。
その当時俺は、何に興味を持って生きてたんだろう?
ほとんど全てのものがどうでもいい、くだらないものだと認識していたことは覚えてる。
そうしているうちに、内心友人に合わせるのがバカバカしくなっていて、そういう態度が表れてたんだろう。友人は自然と俺から離れていった。
つまり本当の意味での友人が作れず、圧倒的に孤立する結果となった。
そのうち勉強すら、何の意味があるのか?と疑問を持ち出して、勉強しなくなり高校を中退。
成功とは、何かを頑張った結果はじめて得られるものだが、そもそも頑張る価値のある「何か」を見つけることが私にはできなかった。
やりたくないことを我慢して続ければ価値のあるものになるのかもしれない。意味も出てくるのかもしれない。
だけども私は、それに耐えられなかった。
そのために、私は落ちこぼれた側の人間というにふさわしい人間に成り下がった。
私はとても不思議に思う。
頑張っている人たちは、なぜそんなに頑張ろうと思えるのか?
それ自体が楽しいからなのか?
頑張った先にある何かを人生の中で最も価値あるものとして妄信しているからなのか?
頑張ることは生きていく上での義務だと感じているからなのか?
俺には何かを一生懸命頑張ってる人たちが、なぜそんなに頑張ってるのかが理解できない。
まぁ、理由は人それぞれなんだろうけどさ。
頑張ることに理由があるのか無いのか、それを生の声として聞いてみたい。