か弱い天使は殺される。
なぜ我々が利他的になれないのかというと、それは結局、殺されるというリスクを負いたくないからだ。
か弱い天使は殺されるのである。
悪魔に勝てる力も自信も無いから、我々も悪魔になって見て見ぬフリをするのだ。
ポイ捨てした悪魔に注意をした場合。その悪魔が暴力的な無敵悪魔だった場合、殴られて殺される可能性だって0ではない。
それを予測することが不可能であるから、我々は怯え、自信を持って注意できないのである。
暴力に応戦できる力を持った無敵天使ならば、自信をもって注意や説得ができるはずだ。
その暴力性を持ち合わせてないから、我々はか弱い天使であり、見て見ぬフリをする悪魔にならざるを得ないのである。
なら我々も暴力性を鍛えた方がいいのか?と言われると、そうした方が良いのは良いのだろうが、我々の国には警察や自衛隊という暴力装置が備わっている。
それを利用するのが、我々にとっては1番良いのだ。
実力が伴っていないのに、自信を持って悪魔に立ち向かうというのは、ある意味無謀だ。
こう言っては語弊があるかもしれないが、新幹線のヒーロー会社員は実力不足だったのではないだろうか。(確か、彼は武器すら持たずに応戦していた)
実力が互角以上なのであれば応戦する意味はあるが、それ以下だという自覚がある場合には、無理に命を差し出す必要は無い。
こんなこと書くと、まるで彼が只のバカだったかのように見えてしまうが、そうではない。
彼は、自分以外に悪魔に立ち向かう人間がいなかったため、か弱い天使でありながらも戦った勇敢な人間なのである。
いずれにしろ言えることは、
鍛え上げた無敵な身体と、なにかしらの強力な武器を持っておれば、自分が害される恐れを払拭して、自信を持って誰かを救えるということである。
武器というものは、暴力性のあるものに限らず、知性という武器や、ユーモア性という武器、お金という武器や、時間という武器など、人を助けるための武器なんてものは多種多様だ。
このように、強力な武器を持つ無敵天使になれさえすれば、多くの人は利他的になれるのではないだろうか。
多くの人は武器を持たないがために、か弱い天使となり、悪魔に殺される可能性に怯え、自分も悪魔に成り下がるのである。