無敵マンのニート日記

臆病な性格をした無職。自由主義者。 Twitter→@mutekiman_xxx

自由主義者の臆病な性格をした無職が、人生の一コマを書き連ねております。Twitter→@mutekiman_xxx

パンを1人じめする人。

ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。
もしも、汚れた心で話したり行ったりするならば、苦しみはその人に付き従う。
----車をひく牛の足跡に車輪がついてゆくように。


ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。
もしも、清らかな心で話したり行ったりするならば、福楽はその人につき従う。
----影がそのからだから離れないように。


上記の文章は、ブッダの真理のお言葉を切り取って詩にまとめられた「ダンマパダ」という経典に書かれたもの。


「全てのものごとは人間の心を原点にして成り立っていている」という、このお言葉。


まさに真理ですよね。脱帽です。


今自分の目の前にある、本やガム、電球なんかも、全ては、これを作ろうと思った人の「心」を原点にして、形になっているわけです。


人間の行いもそうで、行動の起点はいつも心にあります。


要は、この「心」がどうあるべきか?というのがとても重要で、ブッダはそれを
「汚れた心」と「清らかな心」とに分けて説明している訳ですね。


汚れた心って、どんなものでしょうか?


どんなものかは、人それぞれで答えが違ってくるかもしれませんね。(こういうものじゃない?ってのがあれば是非教えて下さい)


私の考えでは「汚れた心」とは、


「自分だけが得をすれば良いという思考」


です。


一つのパンを2人で分ける場面で、1人が自分だけ得をしようとして、とっさにパンを横取りして、それを1人だけで全部食べてしまったら、どうなると思いますか?




全部食べた人は満足しますが、食べられなかった人は、怒り、恐れ、悲しみという不の感情が沸き起こるはずです。つまり苦しい思いをします。


多くの人が生きるこの社会で、こういう自分勝手なことばかりしていると、多くの人から嫌われて、ついには孤独になってしまうはずです。


疎外感を抱くと、人は責任の所在を求めます。

今の不遇は、いったい誰に非があるのか?と考えます。


そこで(過去に自分勝手なことばかりした自分が悪かったと)反省できれば良いですが、おそらく、そうはならないんです。


自分勝手な人は、他人が悪いに決まっていると思うものです。

自分の非を認める能力がある人(反省できる人)は、そもそも自分勝手な言動を取り続けることはしませんからね。


相手が悪いのに、なんで俺だけみじめにならなきゃならないんだ。そういう思考になると、

ちょっとした他人の言動に対して、怒ったり、恐れたり、悲しんだりするようになります。

つまりは苦しい思いをするようになります。


相手の事を考えずにパンを1人じめする人は、相手の事を苦しめて、最終的には自分自信をも苦しめる結果になるという事です。


これは、ブッダが言うように、「汚れた心は苦しみをつき従える」という理論に一致します。そういうわけで、


「汚れた心」=

「自分だけが得をすればいいという思考」


という結論に至ったわけですね。



であるとするならば、「清らかな心」とは?

どういうものでしょうか。


それは、


「自分も相手も得をすればいいという思考」


ですよね。


結局のところ、両者が得をすれば、はじめから誰も苦しまずに済むんです。


相手の事も考えて、パンを2人で半分ずつに分ければ、自分も相手もハッピーなんですよね。


当たり前のことなんだけど、苦しんでいる人達は、これが出来ていないのではないでしょうか?


自分だけではなくて相手のことも考えられる、「清らかな心」をもって生きていれば、福楽は自然とついてくるのです。

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