パンを1人じめする人。
ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。
もしも、汚れた心で話したり行ったりするならば、苦しみはその人に付き従う。
----車をひく牛の足跡に車輪がついてゆくように。
ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。
もしも、清らかな心で話したり行ったりするならば、福楽はその人につき従う。
----影がそのからだから離れないように。
上記の文章は、ブッダの真理のお言葉を切り取って詩にまとめられた「ダンマパダ」という経典に書かれたもの。
「全てのものごとは人間の心を原点にして成り立っていている」という、このお言葉。
まさに真理ですよね。脱帽です。
今自分の目の前にある、本やガム、電球なんかも、全ては、これを作ろうと思った人の「心」を原点にして、形になっているわけです。
人間の行いもそうで、行動の起点はいつも心にあります。
要は、この「心」がどうあるべきか?というのがとても重要で、ブッダはそれを
「汚れた心」と「清らかな心」とに分けて説明している訳ですね。
汚れた心って、どんなものでしょうか?
どんなものかは、人それぞれで答えが違ってくるかもしれませんね。(こういうものじゃない?ってのがあれば是非教えて下さい)
私の考えでは「汚れた心」とは、
「自分だけが得をすれば良いという思考」
です。
一つのパンを2人で分ける場面で、1人が自分だけ得をしようとして、とっさにパンを横取りして、それを1人だけで全部食べてしまったら、どうなると思いますか?
全部食べた人は満足しますが、食べられなかった人は、怒り、恐れ、悲しみという不の感情が沸き起こるはずです。つまり苦しい思いをします。
多くの人が生きるこの社会で、こういう自分勝手なことばかりしていると、多くの人から嫌われて、ついには孤独になってしまうはずです。
疎外感を抱くと、人は責任の所在を求めます。
今の不遇は、いったい誰に非があるのか?と考えます。
そこで(過去に自分勝手なことばかりした自分が悪かったと)反省できれば良いですが、おそらく、そうはならないんです。
自分勝手な人は、他人が悪いに決まっていると思うものです。
自分の非を認める能力がある人(反省できる人)は、そもそも自分勝手な言動を取り続けることはしませんからね。
相手が悪いのに、なんで俺だけみじめにならなきゃならないんだ。そういう思考になると、
ちょっとした他人の言動に対して、怒ったり、恐れたり、悲しんだりするようになります。
つまりは苦しい思いをするようになります。
相手の事を考えずにパンを1人じめする人は、相手の事を苦しめて、最終的には自分自信をも苦しめる結果になるという事です。
これは、ブッダが言うように、「汚れた心は苦しみをつき従える」という理論に一致します。そういうわけで、
「汚れた心」=
「自分だけが得をすればいいという思考」
という結論に至ったわけですね。
であるとするならば、「清らかな心」とは?
どういうものでしょうか。
それは、
「自分も相手も得をすればいいという思考」
ですよね。
結局のところ、両者が得をすれば、はじめから誰も苦しまずに済むんです。
相手の事も考えて、パンを2人で半分ずつに分ければ、自分も相手もハッピーなんですよね。
当たり前のことなんだけど、苦しんでいる人達は、これが出来ていないのではないでしょうか?
自分だけではなくて相手のことも考えられる、「清らかな心」をもって生きていれば、福楽は自然とついてくるのです。